2.ハブクラゲに刺された!
いろいろな旅行トラブルの話を聞いたり読んだりしても、気をつけなくちゃとは思うものの、いつだってまさか自分たちには降りかかるまいと思っている節がある。
できるだけの準備はするものの、まさかねと思っている自分がいる。
でも全ては確率論で、ある日突然災害に見舞われることがある。
後から思えば、今回の旅行前にはやけに「海の危険生物」が気になった。
ハブクラゲやカツオノエボシの写真を見ては背筋がゾッとした。
何だか嫌〜な予兆めいたものを感じていたのかもしれない。
でもまさか、本当にハブクラゲ被害の当事者になるとは、もちろん私たち家族の誰も想像もしていなかったのである。
二日目 2007年7月21日(土) |
7時頃目覚めたときには、空はどんよりと灰色で意外に思った。
昨日の天気予報では一週間晴れマークだったのに。
でも心配はいらず、1時間ほどで雲はどこかに流されていってしまった。
ゆっくり朝ご飯を食べて、9時前には出発。
今日の予定はビーチで遊ぶこと。
細かいことは何も考えていないけど、とにかくシュノーケルできる場所に行ってみよう。
名護市内を抜けて名護湾を見ながら本部半島へ。ここは昨日も通った道。
晴れてはきたものの、やはり灰色の雲が半島の上に横たわっているらしい。海の上はすっきりと青空だが、内陸の方はどんよりとしている。
いつものグリーンフラッシュビーチでも良いのだが、今日行こうとしていたのは崎本部だった。通称ゴリラチョップと呼ばれる場所で、昨日宿泊受付をしたホテルベルビューの目と鼻の先。
昨日のうちに駐車場は確認しておいた。
駐車場と言っても単なる国道沿いのスペースで3台ぐらいしか停まれないだろうか。
ビーチにはそこから階段を降りていくようになっている。
施設は何もない。本当に単なる手つかずの天然ビーチ。ビーチというか、岩場に近い。もちろん誰も管理していない。
ゴリラチョップの名の由来となった、本当に空手チョップをしているようなゴリラそっくりの大岩が聳えている。
ここからはすぐ先に港が見えている。本部港だ。
港からはちょうど大きな船が出航するところ。フェリーかな。横腹にMARIX LINEと書かれている。パパが九州へ行く船なんじゃないかと言った。
階段を降りてビーチへ出てみると、先客がいることに気づいた。
全身ウェットスーツに身を包んだダイバーさんご一行だ。
どうやらここは、無人のタダのビーチであるとともに、ダイビングショップの人がお客さんを連れて潜るスポットのようだった。
彼らが砂浜に上がって立ち去った後も、他のダイバーご一行が入れ替わり立ち替わり現れて海に入っていった。
本当のことを言うと、それを見て不安になってきた。
本格的な装備を調えたプロと違って、私たちの姿は何とお気楽なことか。上半身はラッシュガード、足下はマリンブールを履いているが、足や腕の肘から先はむきだしだし、心許ない浮き具しか準備していない。
それに今まではスティンガーネットの有無はともかく管理されたビーチでしか遊んでいないから、いざというときは駆け込む先もあった。でもここは何もない。
それでも目の前の青い海はとても魅力的で、私はさっさとクラゲ除け日焼け止めのSafe
Seaを塗りたくってマスクをつけた。
子どもたちにも一緒に来るか聞いてみたが、二人とも海に入るよりヤドカリを探す方が良いと言うのでとりあえず一人で入ってみることにした。
ゴリラチョップ岩の前に立って、右と左と悩んだ。
さっきのダイバーたちは岩の右側から上がってきた。
よし、右にしよう。
ちょっとひやりとするなと思いながらゆっくりと海の中に入った。
両腕には子供のライフジャケット型の空気を入れて膨らませる浮き具をつけている。ちょうどアームリング型の浮き具みたいに。これで十分体は浮く。アームリングと違って空気を入れるところが複数に別れているので一応どこかに穴が開いても他が保てば何とかなるしくみ。
リゾートのビーチと違って砂も粗い。
ところどころ岩はあるが足の届く範囲に珊瑚らしいものは見あたらない。
それより何より水が濁っている。
去年、一昨年に水納島はもとより、瀬底島、グリーンフラッシュビーチ、古宇利ビーチ、済井出ビーチなどいろいろシュノーケルして回ったけど、そのどこよりも今日のゴリラチョップは濁っている。正直、沖縄の海とは思えないほど。
たぶん数日前に直撃した台風の影響が残っているのだと思う。
それにしてもこれはひどい。
今日、シュノーケルに来たのは失敗だったかもしれない。
魚の姿もほとんど無い。
岩の辺りに少しだけ魚影があるが、見て楽しいと思うほどにはいない。
もしかしたらもう少し沖の方にポイントがあるのかもしれない。
でも岩の周囲は少し流れもあって、もし沖に流されたらという恐怖があるからあまり動くことができない。
やっぱり魚は少なくても管理されたビーチのロープの中でぱしゃぱしゃやっているのが私にはお似合いなのかも。
パパがパラソルをセットしたのはゴリラチョップ岩の反対側だったので、とりあえず海の中から岩をぐるりと回ってみることにした。
岩から離れすぎず、近づきすぎず、ちょうど良い距離を保ちながら前に進む。
離れて沖へ流されたらと思うと怖いし、また岩に近づきすぎて波で岩にぶつかっても怖い。
岩は波に浸食されて角が丸くなっているかもしれないが、先日
オーストラリアの
ヒンチンブルック島で海辺の岩に接触して手の平を傷つけたばかり。傷は浅かったけれど鋭かった。あれを思い出すとゾッとする。
急に海がとても恐ろしいところのように思えてきた。
岩をぐるりと回って顔を出すと、パラソルの側で遊んでいた子どもたちが気づいた。
こっちだよと手を振っている。
今度はこんな浅いところで怖がっている自分が可笑しくも思えてきた。
子どもたちに海へおいでよと言っても、二人ともなかなか来ない。
元々海よりプールの方が好きだと公言しているし。
私は海は波があるので浮いているだけで楽しいし、魚や珊瑚や貝が見つけられるから飽きないと思うのだが、確かに泳ぐことだけを考えたら、海は塩水で目が痛くなる。
でも私が一人で海に入っているのを見て、だんだん子どもたちもその気になってきたようだ。
やがて海に入ると言いだして、二人ともパパにクラゲ除けの日焼け止めを塗ってもらった。
まあ正確に言うと、乗り気だったのはシュノーケルの得意なレナの方で、カナはレナが行くならとしぶしぶついてきたらしい。この二人はどこへ行くにも一緒じゃないと気が済まないのだ。
カナとレナは浮き輪を使って海の中に入ってきた。
レナにシュノーケルをつけたら?と提案してみたが、今はいらないと言う。
カナはもちろんシュノーケルは使わない。最初に使わせようとしたときに、やれ管のくわえるところが海の塩味で嫌だとか、鼻から息ができないのは許せないとか、なんだかんだといちゃもんをつけてきたので、それ以来彼女にシュノーケルさせることは諦めている。だからカナはいつも水泳用ゴーグルで水中を見ることにしている。本人がいいというのだからもうそれでいい。
オーストラリアのグレートバリアリーフでも強硬にそれで通してきた。
レナは泳いだり、私の背中にかじりついたり。
カナはそのうち浮き輪に捕まりながら「バスですよー、カナバスですよー、停留所で停まりまーす。乗るお客さんは手を挙げて下さーい」とバスごっこを始めた。
まあ今日は初日だし、がつがつ魚を探さなくてもいいか。
なんだかんだで子どもたちも海で楽しそうに遊んでいる。
特にバスの運転手になりきっているカナの嬉しそうな声を聞いているとこちらまで嬉しくなってきた。
ただ、子どもたちと遊んでいるところはゴリラ岩の海に向かって左側で、深さも1メートル程度、下は荒い砂地で魚はいない。
子どもたちの相手をしている私が水中カメラを持っていても意味がないので、これをパパに渡すことにした。
パパもようやくシュノーケル三点セットをつけて海に入ろうとしていた。
「右手の奥の方に少し魚がいたよ。濁っているからあまり見えないけど」
パパは判ったと言って、カメラを受け取り岩の右側の海に入っていった。
そのとき私とレナが何をしていたのか思い出そうとしても思い出せない。
ただ、気が付いたとき、後ろにいたカナが悲鳴を上げていた。
「痛ーいっ!!」
カナが足を水面に持ち上げた。
左足の腿の内側に何か不気味なものが張り付いているのが見えた。
一瞬のことだったが、私にはビーズをいくつか通した糸のような青く透明な物体が見えた。
私は何かを口走った。
動転していたので何だか覚えていなかったが、後からレナが教えてくれた。
「あのときママはこう叫んだよ、『何かいるっ!!』って」
何かってクラゲに決まっていて、クラゲだと判っていたが、そのときは親子してエイリアンにでも遭遇したかのような恐怖に襲われていた。
「触っちゃ駄目!! すぐに海から上がって!!」
必死で私たちは浜を目指した。
距離にしてほんの数メートルのはずだが、水の抵抗をこのときほど辛く感じたことは無かった。
怖かった。
とにかく怖かった。
私だけでなくカナが一番怖がっているのが判った。
とにかく陸地に上がらなくては。一刻も早く。
砂浜についてカナの腿のところを見ると、砂がついていてよく判らない。
とにかく海の水をすくって掛けた。
足が見えるようになると、もうそこには恐怖の物体はついていなかった。
カナは震えながら「痛い、痛い」と押し殺したような声で泣く。
ハブクラゲには酢だ。酢をかけなくては。
だけどさっき見た物体は青く見えた。
もしハブクラゲじゃなくて、カツオノエボシだったら・・・。
ハブクラゲに刺されたときは即座に酢を掛けて触手を剥がすというのが最も一般的な対処法だ。
触手には毒の刺胞細胞があり、そこから無数の毒針が発射される。酢にはそれを止める効能があると言われている。
但し、酢が全てのクラゲに対して有効なわけではなく、むしろカツオノエボシなどは毒針の発射を促し症状を悪化させるとも言われている。
ど、どうすればいい。
私にあれがどちらのクラゲだったか判別は付かないよ。
・・・というか、今の時点では既に(幸いにして)触手は全て剥がれているようだ。
酢は触手をはがすためのものだから、今、最善の行動はむしろ一分でも早く病院に彼女を連れていくことではないだろうか。
私は岩の右側に駆けていった。
大声でパパを呼ぶが、シュノーケルをするために顔を水につけているパパにはなかなか気づかれない。
何度目かにようやく顔を上げてくれた。
必死でこっちに戻ってきてと手を振る。
様子がおかしいと思ったのか、ようやくパパも砂浜に戻ってきた。
「カナが何かに刺された。たぶんクラゲだと思う。病院に連れて行かなくちゃ。悪いけど、ベルビューに行って病院を教えてもらってきてくれない? パパが行っている間に私は撤収の準備をしているから」
旅行者である私たちは地元の病院を知らない。増してや今日は土曜日。休診の医院もあるだろう。
最初からいざというときはベルビューを頼ろうと思っていた。
ゴリラチョップはベルビューの目と鼻の先。車で行けば数分。
ホテル棟に泊まっていないとはいえ、ベルビューの客である私たちにきっとどこか地元の病院を紹介してくれるはず。
カナの所に戻ると、彼女はやはり小さな声で痛い痛い言いながら泣いていた。
顔色は悪くない。
彼女は痛いときははっきりと痛いと言う性格だから、大声で泣き叫んでいないところを見ると、痛みはそれほど強くないらしい。どちらかというと、得体の知れないものに襲われた恐怖で泣いているようだ。
足を見ると、さっき何かが張り付いていた場所がぼこぼこと腫れてきていた。
蚊に刺された跡のように盛り上がって、それが点線状に何本も走っている。
左足の膝の内側が一番酷いようだが、右足の一部と右手の甲も痛いという。
無意識に痛む部分をこすろうとするので止めさせた。
「触っちゃ駄目、大丈夫、大丈夫だからね。今、パパが病院を教えてもらいに行っているからすぐにお医者さんに診てもらえるよ」
私は何度も大丈夫を繰り返した。
泣きじゃくる彼女を見て、他の人が寄ってきた。
さっきも書いたように、ゴリラチョップは入れ替わり立ち替わりダイビングやシュノーケルのツアーらしい人たちがやってくる。
「クラゲに刺されたの? まあ可哀想に」
ビーチパラソルやレジャーシートを畳んで、国道脇の駐車場に運んだ。
下から荷物を運んでくる間は、上に置いた荷物はレナが番をしていてくれた。
呑気に荷物など片づけている暇は無いのだが、車でベルビューまで病院のことを聞きに行っているパパが戻るまでは、他に私にできることは無い。
最後にカナを伴って階段を上った。
全て準備が終わったときにパパが戻ってきた。
「渡久地港の近くの、もとぶ野毛病院というところを紹介してもらった。もうベルビューの人が電話をしてくれたから、真っ直ぐ受付に言ってクラゲに刺されたって言えば診察してくれる」
海に近い野毛病院は思ったより大きな建物だった。
平屋建てに見えたが、よく見たら二階建てだった。
カナも私も着替えるような余裕は無かったので、水着にラッシュガード姿だった。カナには一応ゴムの入ったバスタオルを羽織らせた。
まだ水着が乾ききっていないので、入り口を入ると冷房が効きすぎているように感じた。
受付の前には長椅子がいくつも並んでいて、既に診察が終わって計算や処方箋待ちをしている人たちなのか、年輩の患者さんが何人も座っていた。
真っ直ぐ受付に行き、クラゲに刺された旨伝えると、はきはきした感じの女性の看護士が現れて、電話で事情は聞いていますと直ぐに診察室に入れてくれた。
診察室で看護士は刺されたときの状況を聞いてきた。私はさっき見たことをそのまま伝えた。
「酢で流しましたか?」
「青く見えたのでカツオノエボシだったらどうしようかと思って・・・」
「子供が泳げるような浅いところにいるのはほとんどハブクラゲ。ハブクラゲはカツオノエボシより怖いのよ」
彼女はてきぱきと酢を脱脂綿に含ませるとそれをカナの足に押し当てた。
酢の入ったペットボトルのような入れ物にはあまり上手くない字でハブクラゲと書かれていた。
もっと惜しみなく酢を使うのかと思ったら拍子抜けするくらいちょっとだった。たぶんもう誰が見ても触手は剥がれていたからだと思うが。
それからカナの体にはまだ砂がついていたので、裏口から外に出て、ホースで少し砂を流すよう指示された。
カナの刺された跡を見ると、さっきまでは蚊に刺されたように点線状に盛り上がっていたところが、今はライン状に全て繋がって、ミミズ腫れになっていた。一本ではなく、何本も触手がからみついたのがよく判る。改めてゾッとした。
もう一度診察室に入ると、看護士はカナのミミズ腫れを見て、やっぱりハブクラゲに間違いないと断定した。
触手の痕が一本ではなく何本も走っているところもハブクラゲの特徴なのだそうだ。
刺された場所の波打ち際からの距離や深さなども確認される。そしてそれらをカルテに書き込んでいく。
「あなたがハブクラゲの被害にあったことを沖縄県福祉保健部(だったと思う)に連絡してもいいですか?」
「構いません」
これで私たちの件は沖縄県の海の危険生物公式被害データの1部としてカウントされたわけか。
「もうひとつ質問させてもらうけど、海の危険生物の注意を喚起するポスターを見たことがある?」
・・・海の危険生物の注意を喚起するハンドブックなら那覇空港でもらってきたし、同様の内容のネット情報などはさんざん見てきたけど、ポスターは覚えがない。
「ポスターは見ていないと思います」
「ポスターは、見ていない・・・と」看護士はそれもメモした。このことも福祉保健部に伝えなくてはならないらしい。見ていない人が多いというデータが集まれば、もっと啓蒙活動をしなくては、とかそういうことになるんだろう。
「ポスターはこれよ、よく見ていってね」
看護士は私たちを廊下に出して、そこに張り出してあるポスターを見せた。
一通りカルテの記載が終わると、医師の待つ隣の部屋に案内された。
てきぱきとした看護士と対照的に男性の医師はおっとりしたタイプに見えた。
「えーと、刺されたのはどこだっけ、崎本部? まだ今年はハブクラゲ、出ていないんじゃなかったっけ。可哀想に、運が悪いねぇ」
ハブクラゲシーズンは7月からと思っていたが、地元ではむしろ8月が最盛期だという認識のようだった。
「今年は例年になく暑いからハブクラゲの発生が早かったのかな」
するとカナはこの辺りで第一号の被害者ということに?
めちゃくちゃ不運な娘だこと。
「で、いつから沖縄に来たの? えっ、昨日から? じゃ来たとたんに刺されちゃったわけね。本当に可哀想に」
やたらと同情だけはされているようだ。
「でももう痛くないでしょ? 傷はたいしたこと無かったよ」
カナは小さく肯いた。
そうか、もう痛くなかったのか。良かった。
医師は看護士に指示して何か塗り薬を塗らせた。
「今塗っている薬は一番強いお薬ね。ステロイド剤ね。あと念のため、チューブの塗り薬出すから。えーと、二本出しておくかな。そんなにいらないと思うけど念のため、ね。そっちは今塗っている薬ほど強くないから。あと痛み止めの飲み薬も出しておくから」
「一日何回塗ればいいんですか? またどのくらいの期間塗ればいいんでしょう。飲み薬の方は痛んだときですよね?」
「ああ、一日二回ぐらいかな。赤みが引くまででいいよ。二、三日でいいんじゃないかな。飲み薬は痛くなかったら飲まなくていいから。塗り薬も本当はそんなに沢山いらないと思うけど、余ったら虫さされにも効くからそれに使えばいいよ」
な、なんかちょっと適当っぽい。
でも二、三日で治ると聞いて安堵した。
「お母さん、長ズボン、持ってきた? 夏の沖縄に旅行に来たんじゃ持ってきてないか」
「・・・持ってきていません」
「あのね、ステロイド剤は色素沈着するんでね、日焼けすると色が残るから・・・えーと、ガーゼ貼ってあげるか・・・」
看護士がガーゼとテープを持ってきて、カナの足と手の甲の薬を塗ったところにガーゼを貼ってくれた。
「本当は衣服で隠した方が確実なんだけどね」
そんなに心配するほど色素沈着するものなのか。まあ沖縄の紫外線は東京の比では無いようだから。
カナもだんだん安心して来たのかぼそぼそとしゃべり始めた。
「何でクラゲ除けの日焼け止め塗っていたのに刺されたの?」
看護士が、えっというようにカナの顔を見た。
「いやね、塗っているとクラゲに刺されないっていうSafe Seaっていう日焼け止めがあるんですよ」
医師も看護士もへーというように顔を見合わせた。
「知ってました?」
「いやー、知らない」
「でもこれでクラゲ除け日焼け止めが効かないって判ったから・・・」
「いやそんなことはないと思いますよ」
えっ?
意外なことに二人とも効果はあったんじゃないかと力説し始めた。
「普通だったらハブクラゲに刺されたらこんなものじゃ済まないのよ」
「そう、大声で泣き叫んで救急車じゃないと駄目なこともあるし。あなたの場合はほとんど毒が入っていないよ。その日焼け止めを塗っていたからこの程度で済んだんじゃないかなぁ」
そうなのか。
というわけで今回の件で判ったこと。
クラゲ除け日焼け止めSafe Seaは効果がある。
但し、これのみでクラゲの被害を完全に防ぐことはできない。
とはいっても、実際に刺されたときに被害を軽減する効果は期待できそうだ。
だからこれだけを過信するのは良くないが、備えておくだけのメリットはあると思う。
医師の診察が終わったところで、「ネットのあるところで泳がなかったの?」と看護士。
「シュノーケルが目的だったので」
なるほどというように彼女は私たちを見た。
「確かにラッシュガードやマリンシューズを身につけているものね。でもさっきのポスターにも写真があったと思うけど、ガンガゼの針なんかはマリンシューズも突き通すから長靴とか、もっと底の厚い靴でないと防げないのよねぇ」
溜息が出てきた。
「まあ、お子さんたちがどうしてもって言うんじゃなければ、後はクラゲ除けネットの中でだけ泳ぐのね」
はい。
というか、もう二度とカナは海に入らないかもしれない。
「ありがとうございました」
受付で治療費を支払い処方箋を受け取って病院を出ようとしたら、入れ違いに車椅子を押しながら入ってきた女性が声を掛けてきた。
「ハブクラゲに刺されたの?」
「ええ、そうなんです」
「まあ痛かったでしょう、お気の毒に」
なんでハブクラゲって判ったんだろうと私が言うと、パパは「そりゃ夏の沖縄の病院に水着姿のままの子供が立っていればハブクラゲだと思うだろうよ」と。
車に戻ってカナを着替えさせた。
その間にパパが近くの薬局に行って薬を受け取ってきてくれた。
ところが・・・。
「あれ? チューブがひとつしかない」
渡された薬の袋にはデキサンG軟膏と書かれたチューブが一本。
「俺は処方箋を出して、そのまま薬を受け取ってきただけだよ」とパパ。
おかしいな。医者は間違いなくチューブを二本出すって言っていたぞ。
二本じゃ多すぎるけど念のためって何度も言っていたから間違いないはず。
「どうするの? もう一回薬局に行くの?」
「うん、車を回してくれる? 私が聞いてくるよ」
薬局はもとぶ野毛病院の受付で教えてもらったところだ。
表通りに面していて、ぱっと見、薬屋に見えなかった。
中に入って事情を説明したが、薬剤師は確かに処方箋通りの薬をお渡ししたし、処方箋には二本とは書いていなかったと困惑したように言ってきた。処方箋自体も見せてくれる。確かに二本とは書いていないようだ。
・・・うー。
まあ元々二本じゃ多すぎるかもなんて言っていたくらいだからいいか。
「いいです、これで・・・」
チューブのサイズ的にも数日塗ったぐらいでは無くなりそうになかった。
釈然としないものもあったが、諦めて薬局を後にした。
ところが車が数分走ったところで急にもっと大事なことを思い出した。
「そうだ!! 医者はチューブ二本と言っただけじゃなくて、痛み止めの飲み薬も出すって言っていた!!」
パパはうんざりしたように「また薬局に戻るの?」と聞いてきた。
「いや、もういいよ。カナはもう痛くないって言っているし、万が一夜にでも痛みだしたら市販の痛み止めを飲ませるから」
頭痛持ちの私は痛み止めを常備している。
病院は急な診察を受けてくれたし受付も医師も看護士も感じの良い人たちだったけど、処方箋だけはいったいどこで食い違ったものか。
ああもう、空の青さも恨めしい。
今日はいくら晴れたってもう海には行かれない。
今日どころか、沖縄滞在中ずっと、海に行くどころではなくなってしまった。
カナは良いことにもよく当たるが、悪いことにもよく当たる。
何も最初の日にこんなに酷いアンラッキーを引き当てなくても良いものを。
12時半頃に私たちは泊まっているマンションに戻ってきた。
みんなぐったり疲れていて、頭の中も真っ白だった。
もちろんお昼ご飯のことも何も考えていない。
「どうする?」
「・・・」
何か食材を買いに行かなくてはならないし、カナの長ズボンも買いに行かなくてはならない。ずっとガーゼを当てているわけにはいかないし、医師はどうもクラゲに刺された症状よりもステロイドの副作用である色素沈着の方を心配していたようだから。
結局私たちは子どもたちに留守番を頼んで、車で買い物に出かけることにした。
まず立ち寄ったのは名護のジャスコ。
ここは複合スーパーマーケットというだけではなく名護市においてデパートのような役割も負っている。
時期が時期だったので衣料品は夏の大バーゲン真っ最中だ。
ユニクロで丈の長いジーンズを発見。
「よし、これにしよう」という私に、パパは「こんなに細くて大丈夫か?」と心配そう。
何を言ってるの。自分の娘の体型も知らないの?
カナは身長も小柄だが、それにも増してスレンダーだ。母親である私の小学生の時の体型そっくり。
はっきり言って、市販のどんな服でも彼女には緩いくらいだ。最近のボトムは内側に調節ゴムベルトが入っているものが多いのでずり落ちずに済んでいるが、デザイン的には締め付けると格好悪いものも多く、この辺を購入前に見極めないといけない。
実際にマンションに戻って履かせてみたら、この細身デザインのジーンズでもまだ彼女には少し緩すぎた。
まだ衣料品売場に用事があった。
パパのかりゆしウェアを探していたのだ。
パパは暑がりの汗っかきだ。冬の寒さに弱い私と違って、夏の暑さに耐性が無い。
ただでさえ暑がりのパパに35度を超す灼熱の東京で襟元をネクタイできっちり締め付けたYシャツを着ろというのは拷問に等しいらしい。クールビズは願ったり叶ったりだった。
「でもどうせかりゆしウェアを買うなら、本場の沖縄で買いたいよな」
そう言っていたのでこの機会に探すことにした。
パパとしてはジャスコで探すのは不本意だったようだが。
ラックに下がっているかりゆしウェアは安いもので3千円、高いもので2万円ぐらい。
元々かりゆしウェアとは沖縄の正装で、ルーツはアロハシャツだと言われている。というか、アロハシャツというものが日本のキモノ柄から発展したものと言われているのだから、トロピカルでありながらどこか和風のごちゃごちゃ感が漂う。
正しいかりゆしウェアには規定があり、「沖縄県内で縫製されたもの」「沖縄観光をアピールした柄であること」という二つの条件を満たしていないといけない。
形は開襟シャツがほとんどだが、一部、スタンドカラーのものもある。
柄はハデハデなものがほとんどだが、中にはシックでシンプルなものもある。
あれは仕事には派手すぎかな、これはいくらなんでもふざけ過ぎかなと、いろいろ選んではあててみる。
ハイビスカス(アカバナー)、シーサー、シークワーサー、ウミガメ、パイナップル、椰子、ヤンバルクイナ、ジュゴン柄まである。
1枚でいいよと言うパパに2枚買わせた。
絶対、重宝するって。
かりゆしウェアを選んでいる間に携帯が鳴った。
マンションで留守番をしている子どもたちからだ。
「お腹減ったよー」
「うん、判ってる。もうすぐ帰るから」
5分もしないうちにまた掛かってくる。
「お腹減りすぎてもう我慢できなーい」
「うん、もうちょっとだから」
「いつまで待てばいいのー。もう無理ー」
三度目には流石にまずいなと思った。
「冷蔵庫に食パンが入っているから、我慢できなかったらそれを食べていいから」
本当はもうちょっとましなものがあれば良かったが、調理しないで食べられるものはそのくらいしか無かったはず。
パンは健康パンというちょっとレトロな袋に入ったぐしけんという沖縄のメーカーのもの。普通の食パンより小さめだが14切れぐらい入っている。普通サイズに換算して2斤分ぐらいだろうか。
パンのことを教えてからは30分以上電話は鳴らなかった。
パパは、「帰ったらあの健康パンが袋だけになっていたりして」と言った。
私はまさかと笑ったけど、本当にジャムもバターもつけずに腹ぺこだった子どもたちはあの健康パンを一枚残らず食べてしまっていた。
さて、お気に入りのかりゆしウェアを見つけたパパは2枚購入し、次にファーマーズ・マーケットはい菜やんばる市に向かった。
ここはJAが運営する農産物直売所。
去年も立ち寄ったがそのときはちょっと期待はずれだった。野菜も果物もビニールハウスのような仮設販売所に少し置いてあるだけだったから。
今年見たらすっかり立派な建物に変わっていた。どうやら去年のあれは本当に仮設だったようだ。
中も広く品数も多い。
贈答用のマンゴーがほしかったが、マンゴーは去年、大宜味のものが一番良かったから今年もそっちを見てからにしよう。
パイナップルがいっぱい。ベニイモ加工品もいろいろ。探していたジーマーミー豆腐もある。何だ少量のお米とかもあるじゃない。
結局、野菜とシークワーサー、ミニマンゴー、スナックパイナップル、カニステル、ジーマーミー豆腐とカーサムーチというベニイモの生菓子を買った。
パパはカニステルを見て、なにそれと言う。
何って果物だよ。私もまだ食べたことがないからどんな果物かは知らないけど。
最後に立ち寄ったのは名護公設市場だった。
初日に那覇の牧志公設市場に行きそびれてしまったので、名護公設市場で肉類を買い出すつもりだった。
もう名護に来たらどこで何を買うかは決まってしまっているような気がする。
肉は公設市場、魚は魚しん、野菜は今日の感じだと、はい菜やんばる市かな。缶入りアルコールはかねひでだよ。果物だけはその年によって品質も値段もばらつきがあるのでどこと言い切れない。
公設市場には駐車場がないので、手前の市営港駐車場に車を停めて歩く。
駐車場の目の前の海側には第30回名護夏まつりと書かれた大きなゲートができている。
ちなみに夏まつりの開催日は一週間後、つまり私たちが沖縄から帰る日だ。
1時間100円の市営駐車場から公設市場までの道は昭和の時代から時間が止まったようなレトロでけだるい景色が待っている。
強い日差しに白茶けたコンクリの建物の間にぽつりぽつりと昔ながらの赤瓦の家が残っていたり、アーケードに枯れかけたブーゲンビリアが絡みついていたり。
名護プラザのビルにしがみついた巨大なトカゲも健在。
そして見捨てられた町のように通りにはほとんど人影がない。
公設市場の入り口も目立たない。
アーケードの天井部に「公設市場」と書かれたシンプルな看板が下がっているだけだ。
それを目印に曲がると、そこにはもっとディープな空間が待っている。
東京新橋のガード下にも似たアーチ型の煉瓦組みの建物に、肉屋や魚屋、総菜屋、何故かケーキをショーケースに並べた洋菓子屋が混ざっているのが何とも異色だ。入り口の外側には果物屋もある。
そしてこの辺り、小さなスペースにいくつも店舗があってそれぞれに店番がいるが、いつ見てもほとんど客はいない。観光客で賑わっている牧志公設市場とは雲泥の差だ。
片隅には段ボールの空き箱や空きコンテナなどが積み上げられている。
そこここで店の従業員が数人固まってひたすら無言でモヤシのひげをむしっていたりする。
最初に来たときはあまりのとっつきにくさにどう買い物をしたら良いか困ってしまったくらいだ。
肉屋ひとつとっても、何軒か有り扱っている品物もほぼ同じだが、前回と同じ店で買うことにした。
ケースにも入れずそのまま目の前に固まり肉を積み上げて売っている。
去年もここで買ったんですよとと言うと、ポルトギューと書かれた辛みソーセージのようなものをおまけしてくれた。
去年は1キロ以上はある豚のレバーをでろんと入れてくれたっけ。公設市場と名の付くところは必ず何かおまけしてくれる。
公設市場を出たところにある果物屋で半端な島バナナを見つけた。
去年、沖縄らしいフルーツはいろいろ食べ比べてみたが、島バナナだけはまだ食べたことがない。普通にスーパーで売られているフィリピンや台湾のバナナと比べてどう違うのか気になっていた。
島バナナは小振りでがっしりしている。スーパーのバナナのように2〜3本に分けては売られておらず、だいたい10本以上くっついた房のまま売られている。
房のままだと多すぎて食べきれないかもしれないし、お値段もさっきのはい菜やんばる市でも千円ぐらいしていた。
それがここで3本ぐらいのものを見つけた。どうやら房が折れたか部分的に買っていった人がいたのか。
房の状態のバナナはここでも700円したが、この小さいものは聞いてみると200
円で良いという。
よし、買いだ。
「今日だとまだ熟していないからあと二、三日置いてね。熟してないと渋いから」
了解。
マンションに戻ってきたのは2時半過ぎ。
何だかお腹は空きすぎて、逆に空腹感を感じなくなっていた。
とりあえずカロリー補給と思ってジーマーミー豆腐を食べた。
この葛にも似たぷるんぷるん感とあまじょっぱいたれの味が忘れられなくて。
個人的に沖縄に来たら絶対食べたいものと言えば、マンゴー、海ぶどう、ジーマーミー豆腐かな。ジーマーミー豆腐以外は季節ものだけど。
パパは公設市場で買ってきたバラ肉で角煮を作り始めた。
沖縄のバラ肉は皮付き。皮付きの肉で作ると歯ごたえが全然違う。
泡盛と黒砂糖も必須。
テレビでは何故か群馬県の
四万温泉が写っている。
もう何をするでもなくマンションから海を見ている。
午後はずっと食べたり飲んだりしながら時間が過ぎるのを待っている。
今日は大変な一日だった。
そして明日からどうするかまだ何も考えていない。
いつの間にか窓の外の景色は夕景に変わっていた。
燃え尽きる間際の線香花火に似た大きな夕日はオレンジ色に輝きながら本部半島の山陰に沈んでいった。