12.積善館の館内歴史ツアー
時間になると意外に若くきびきびとした社長が現れた。
集まったお客さんたちによく見えるようにもっと寄ってくださいねと愛想よく声を掛け、プロジェクターを起動して手慣れた様子でユーモアを交えながら説明を始めた。
映し出されたのは白黒写真の時代の
積善館。
貴重な明治15年ごろの資料で、写っている積善館にはもちろん山荘も佳松亭も無い、本館すら当時のものが全て現存しているわけではない。
実は今いるこの部屋は当時から残っている貴重な建築物の一部だが、今は窓側の部屋の外壁になっている部分が当時は無く、全て二階の周囲はぐるりとオープンになった外廊下が部屋を繋いでおり、その廊下で湯治客は煮炊きやコミュニケーションを図っていたという。
そう言えば最初にこの部屋に来た時の違和感は、この階の部屋はドアと言うものが無く、そもそも廊下と部屋とを隔てる壁というものすらなく、ふすまを開け放てば全てオープンになる作りであるにも関わらず、宴会場などではなく明らかに客室のように見えたからだった。
これらの作りは一昔前の湯治場などではよく見られたものだったらしい。
私もふすまに引っかけるだけのごく簡易な鍵しか付いていない部屋や、未だに廊下で煮炊きする湯治宿に泊まったことはあるが、今いる積善館の部屋は妙に畳なども新しく、そういうことだったのかとは最初は判らなかった。
ちなみに現在はこの歴史ツアーなどに使われるこれらの部屋は、客室としては使っていないとのことだ。
千と千尋の神隠しに関する話もあった。
単に由緒正しい古い宿という印象だった積善館を、今広く知らしめているのはこの宮崎駿の作品に寄るところがとても大きい。
湯婆婆の経営する油屋は、私にすると中華風というか竜宮城的というか、丸みのある輪郭が直線的な積善館の建物とまるで似ていないように思うが、あの朱塗りの橋と雰囲気は共通するものがあると思う。
少なくともあの橋の真ん中にカオナシがぽつんと立っていても違和感無し。
社長の話で面白かったのは、何故このような奥まった場所にある四万温泉が栄えたのかという話。
当時は鉄道もバスも無かった。
白黒写真でも人力車で到着した客が写っている。人力車に乗る金銭的余裕が無い者は徒歩でアクセスしただろう。
なのに何故わざわざ四万だったのか。
社長は語る。
今でこそ四万温泉は行き止まりだが、その昔はここから越後=新潟へ抜ける街道が通っていた。四万温泉で一泊、さらにこの先に木の根宿という小さな宿場が昔はあったことが判っていると。
木の根宿のことは以前、中島屋の主がどこかに書いていたような記憶がある。
四万温泉のダムに近い日向見には木ノ根宿園地という公園がある。これが今は無い木の根宿の名を残したものなのだろうか。
とにかくその当時、はるばる四万温泉まで徒歩なり馬なり人力車なりでやってくると、その街道の真正面に積善館が建っていたそうだ。
つまり、道を歩いてくるとその道がそのまま朱塗りの橋になり、橋を渡ると目の前に積善館だ。これはインパクトがある。
というか・・・それって今の
四万たむらの位置づけそのまんまじゃん。