◆◇桜の古都巡り◇◆
奈良観光旅行記
京都や奈良に来て歴史的建造物の前に立つと、まるで時間が巻き戻されて自分が今いる時間軸と当時の時間軸に二重写しになって存在するような不思議な感覚が味わえる。
東大寺は小学校の社会(歴史)の授業でも習うので知らない人はいない。
奈良時代で最も有名な歴史上の人物はと言えば聖武天皇で、聖武天皇と言えば東大寺の大仏だ。
聖武天皇は奈良時代、第45代天皇として即位した。
血筋は壬申の乱以降で天智天皇系と天武天皇系に分けるとするならば天武天皇系で、天武天皇の曾孫にあたる。
藤原氏の勢力が一段と強まる時代に在位したこともあり、初めて皇族出身ではない正妻となった光明氏は藤原不比等の娘であった。
そして光明氏の立后に反対した長屋王は自殺に追い込まれる。長屋王は天武天皇の孫であり即位してもおかしくない出自の血筋であり従うものも多かったにも拘わらず、陰謀により一族郎党惨殺され、この事件 長屋王の変が聖武天皇の治世に暗い影を落とすことになる。
都には疫病がはびこり災害もまた多発した。
長屋王を葬った藤原四兄弟も相次いで死を遂げた。
仏教を深く信仰した聖武天皇は天平13年(741年)に諸国に国分寺を、天平15年(743年)には東大寺の大仏を建立する詔を発する。
責任者として招聘されたのは民衆に人気の高かった行基だった。
こうして黄金に輝く巨大な廬舎那仏は造営された。
聖武天皇の正妻 藤原不比等の娘 光明氏にも孤児院である悲田院、医療施設である施薬院などを設立したと記録が残されているが、歴史が勝者の記録であることを勘案すると、これらも藤原氏によってかなり盛られた話であるのかもしれない。
このように東大寺と言えば大仏であったが、この大仏殿及び廬舎那仏も二度ほど炎上、破壊されており、建立当時そのままに残っているのは袖や足の一部であるとされている。
最初の炎上は平安末期、源平合戦のさなか京の平氏に反旗を翻した東大寺・興福寺などの僧兵に対して行われた攻撃で南部焼き討ちと呼ばれている。
二度目は戦国時代。残忍な戦国大名として知られた松永久秀がもともと主君の一族であった三好三人衆もろとも火を放ったと言われている(三好方からの放火であったなど異説あり)。
南大門を潜って真っ直ぐに進めば正面がその大仏殿。正式名称を東大寺金堂と呼び、近年までは世界最大の木造建築であった。
大仏殿の正面は中庭のようになっており、ぐるりと回廊が取り囲んでいる。
その内側に入るためには正面の中門ではなく、左手に回り西側の大仏殿入堂口から入り拝観料を払う必要がある。
何となく朝食を食べるところを探して東大寺まで来てしまったので、何となく拝観料を払い中に入ってみた。
修学旅行に来た当時の記憶は完全に消えていて、この時は大仏殿に大きな大仏があるのだろう程度の知識だった。
この辺りは個人客だけでなく、旗を持ったガイドが先導する集団のツアー客も多かった。
日本人のツアーもあるが(宗教系のツアーで旗に宗派名が書いてあったり)、中国人のツアーが多かった。
私は一度うっかりカメラのレンズカバーを落としてしまい、親切な中国人観光客に教えてもらった。
お礼を言いながら、こういう人たちには中国共産党の喧伝する誤った日本の姿ではない普段着の日本を知って帰ってもらいたいなと心から思った。