2.快晴と初雪のあわいに
二日目 2007年11月18日(日) |
まだ眠い目をこすりながら一歩表に出ると、きんと冷え切った大気が身を包み、鋭く透明な光が目を射た。
木々の間から朝日が昇るところだった。
空は真っ青だ。
山あいの温泉街は枯れ葉色で、渋く豪奢な晩秋の彩りを見せていた。
昨日、いやいや寝たのはもう今朝になってからだった。
布団に入ったのが午前4時。
目が冴えて眠れずそのまま空が白むのを見る羽目になるか、あるいは爆睡して朝食も食べられずにチェックアウトぎりぎりまで布団にくるまっているかと思ったが、予想に反して7時には目覚め、目が覚めたからにはと朝風呂に行く決意をした。
幸い花湧館玄関前にがっちゃんがいたので、案内を頼んだ。
方向音痴の私は未だに
四万たむらの沢山あるお風呂の位置を一つとも理解していない。
私が行こうと思っていたのは、四万たむらの中でもただ一つ、まだ入ったことのない甍の湯だった。
甍の湯に入ればそれで一応四万たむら・
四万グランドホテルのお風呂は有料貸切などを覗き全制覇したことになる。
ロビーでは川筋に面して広く取られた窓から、新湯川が見下ろせる。
私たちはロビーを抜け、エレベーターで階下に降り、バーの横を通って大浴場甍の湯に向かった。
「あれ?」
がっちゃんが足を止める。
真っ正面が甍の湯の入り口だが男湯と書かれている。
普通は隣に女湯があるものだが、ここでは見あたらない。
タオルを手に浴衣姿で朝風呂に急ぐ周りの女性達はみんな甍の湯男湯の手前にある「森のこだま」と書かれたドアを出ていく。
がっちゃんは、「ごめん、ここしか判らないや」と謝りながら男湯の中に消えてしまった。
仕方なく私も森のこだまの方に行きかけて、背後にある幅の広い階段に気づいた。
甍の湯の女湯は二階だったのだ。男湯とは隣り合わせではなく、上下二階建てになっていたのだ。そういえば露天風呂の森のこだまも同様だ。下が男湯で上が女湯。
判れば話が早い。私はそそくさと階段を上がり、ちょうど男湯の真上にある甍の湯の女湯に入っていった。
森のこだまに向かう女性の数が多かったのに対し、甍の湯は空いていた。
それでもスリッパがいくつか。
湯気の漂う浴室に入ると、湯船は四角いものが三つほど。
一番手前のものは長方形で二つに仕切られているが下は繋がっているように見える。
障子のようなデザインの窓から斜めに朝の光が射し込む。たぶんあそこから下をのぞくと作りから言って男湯が見えそうだ。
浴槽の足下は玉砂利風で、品がよい。そろそろと入ってふーと一息ついた。
お湯は温めだった。
ぼうっとしていた頭もだんだん覚めてくる。
ここも悪くは無いけれど、これだけ天気が良い朝だもの・・・せっかくだから森のこだまも行ってみよう。
そうと決めれば善は急げ。
朝食時間のことを考えると、8時前には余裕を持って部屋に戻っていたい。
森のこだまは四万たむら自慢の露天風呂だ。
系列の四万グランドホテルの露天風呂もいまひとつ展望がないことから、たぶん四万グランドホテルから入りに来るお客さんも多いはずだ。
さっきは大勢向かっていたからもしかして混んでいるだろうかと思いながら森のこだまに通じる外回廊を早足で歩いた。時々すれ違う人がいる。ちょうど入れ違いならいいんだけど。
最後の階段を上り、脱衣所に入ると、もう上がった人が二人涼んでいて、お風呂にもあと一人、そしてその最後の人が上がろうとしているところだった。
新湯川と小さな滝に面した森のこだまは、澄み切った朝の空気にほんのりと湯気を漂わせていた。
マイナスイオンなんて信じていないが、この場所で深呼吸したら体が中から浄化されていくような雰囲気が満ちていた。
湯船に入り、お湯をかきわけて縁から川を見下ろすと、空と山と木々の鮮やかな色合いはあまりにもクリアで、それらを独り占めしている幸福が信じられないほどだった。
一昨年ちょうどお風呂に向かって張り出していた一番目立つ木の紅葉が今年はもう終わり、景色に侘びしさを添えている。
ざあざあと水の流れる音が耳に心地よい。
早起きして良かった。
今朝が快晴で良かった。
部屋に戻るとえんぴつさんがちょうど朝食に行くところだった。
私も一緒に行きたいが、まずは子どもたちの様子を見てこなくてはならない。
そういえば、部屋割りでは私と我が家のカナとレナ、くららさんとまりなちゃんが一室で、yuko_nekoさん、がっちゃん、ちび姫ちゃんの三人家族プラスえんぴつさんが一室のはずだったが、お父さんの部屋に帰ったミサミサちゃんをのぞき、子どもたちは四人一緒に寝てしまったので、子供部屋に残った一つの布団にはくららさんが寝て、私は本来ちび姫ちゃんが寝るはずだったyuko_nekoさんたちの部屋の布団で寝かせてもらった。
さて、子供部屋は今、どうなっているだろうか。
えんぴつさんが「先に一人で朝食バイキングに行ってゆっくり食べてますから」と行ってしまったのに続き、私もyuko_nekoさんたちの部屋を出て、子どもたちの寝ていたはずの部屋へ向かった。
子どもたちは並んで布団から顔を出し、テレビを見ていた。
ポケモンサンデーという日曜の朝の番組だ。
くららさんはまだ寝ていた。まったく起きる気配は無いらしい。
子どもたちに着替えを渡して、それから8時半のポケモンサンデー終了を待ってから、朝食会場へ連れていくことにした。
8時半になってもくららさんは起きない。私やえんぴつさんと違って彼女はこの後自分で運転して帰らなきゃならないから少しでも寝かせておこう。
でもまりなちゃんにしてみたら、他の子は寝間着から着替えたのに、自分だけ寝間着で朝食を食べに行くのは嫌だと思ったらしい。まりなちゃんの着ていた寝間着はトレーナーという感じで端から見たら問題無いのだが、本人はきっちり分けたいらしい。
「ママ〜、着替えを出して〜」
爆睡しているくららさんに布団の上からダイブした。
「〜!!」
声にならない悲鳴が上がった。
あちゃ〜、ご愁傷様。
とりあえず私とyuko_nekoさんで四人の子どもたちを先導することになった。ミサミサちゃんだけはパパの部屋に戻って寝たので、ちゃんとパパと一緒に朝ご飯を食べに行っていた。
花湧館の朝食はバイキング形式。
和食も洋食も好きなように選べるようになっていて、卵などは注文に応じて目の前で焼いてくれる。
バイキング会場の手前にちょっとした休憩スペースがあって、そこにだださんや晶ちゃんが座っていた。
「晶ちゃ〜ん」
そう言えば私は昨日から、この忘年会の主役である晶ちゃんとほとんど話をしていなかったのだ。
ケーキ入刀イベントの後は子どもたちの歯磨きなどのために部屋に戻ってしまってそれきりすれ違ってばかり。
肌の乾燥を防ぐためか指無しの白い手袋をしていてそれが何だか痛々しい。
でも表情は明るかった。
「今度一緒にキャンプ行きましょう。キャンプ行かれるようになったんですよ」
積もる話がいっぱいあるような気がする。
きっと次の機会には沢山話ができると思う。
どうぞだださんとお幸せに!!
めいめい食べたいものを皿に取った子どもたちは子どもたちだけでテーブルを囲んでいた。
バイキング会場の一番奥に既に朝食を終えたえんぴつさんが座っていて、その隣のテーブルにしたようだ。
私とyuko_nekoさんとがっちゃんは、えんぴつさんのテーブルにトレイを置いて腰を下ろした。
ぱくぱくと朝食を食べている私たちを見て、えんぴつさんは新たに自分のデザートを取ってきた。
そのときに使った新しいトレイがあるので、えんぴつさんの前にトレイが二つ。
隣のテーブルから振り返ってそれを見つけたちび姫ちゃんは、パパのがっちゃんが二人分平らげたのかと思って目を丸くしていた。
子どもたちは本当に仲良しだった。
ぺちゃくちゃとおしゃべりしながら特に騒ぐこともなく四人とも朝食を食べ終えた。
「デザートもあったよ。ヨーグルトとかフルーツポンチとか。自由に取ってきていいんだよ」そう言うと、四人並んでデザートを取りに行った。
ところが戻って来る途中、レナが転んで自分がパイナップルを入れたトレイを落としてしまった。
慌てて助けに行った。転んだこと自体は大したことないようだが、彼女はこういうとき恥ずかしいと思う気持ちが強く立ち直れなくなる。そうすると周りに迷惑を掛けるかもしれない。
案の定レナは泣き顔で帰ると言い出した。
私の服を引っ張ってバイキング会場の外へ連れ出そうとする。
彼女はこういうときどうしても気持ちの切り替えが上手にできない質だ。
心配したカナやまりなちゃんがやってきた。
大丈夫だからと伝えて、私はレナと一緒に部屋の外に出た。
もうほとんど食べ終わっていたから部屋に戻るか。
デザートを食べ終えた子どもたちがまた心配してご用聞きに来てくれたので、座席に残してきた私のバッグを持ってきてくれるよう頼んだ。
そしてさっき晶ちゃん達が休んでいた廊下の椅子でレナをなだめていると、やがて食事を終えたyuko_nekoさんたちも出てきた。
みんなが出てきたことでまたレナは恥ずかしさが先に立ったようだ。早く部屋に戻ろうと力尽くで私を引っ張った。
仕方なく私は彼女に引きずられるように歩き出した。
子どもたちもぞろぞろとついてくる。
例によって方向音痴の私は部屋までの道をよく知らない。でもまあ、みんな一緒なら誰か知っているんじゃないかとたかをくくっていた。
レナは廊下を進み、それから階段をどんどん降りようとする。
ふと振り返るとまりなちゃんの姿が無かった。
「あれ? まりなちゃんは?」
心配はしたものの、たぶんyuko_nekoさんたちと一緒にいるのだろうと思って、私たちはさらに階段を降りた。
でもどうも様子がおかしい。本当にこの道、合ってるの?
だって階段の出口が非常口の防火扉みたいになっている。客が出入りする雰囲気じゃないよ。
ちょうどその防火扉の前にたむらの従業員のおじさんがいた。
「えっ、どちらへ?」
「花湧館に戻りたいんですが」
「そうしたらねぇ、この階段じゃなくて・・・」
おじさんは親切に行き方を教えてくれた。と、そこへまりなちゃんが追い付いてきた。どうやらyuko_nekoさんたちと一緒ではなく一人きりのようだ。
「道間違っているのにみんなどんどん行っちゃうんだもん」
まりなちゃんは一人で私たちの後を追ってきた上、正しい道もちゃんと知っているしっかりものだった。
ちなみにカナは間違っていることも、どこで間違ったかも判っていたようだが、レナとちび姫ちゃんは判っていなかったようだ。私に至っては最初から何が何やらさっぱり判っていない。
部屋に戻った子どもたちはまた遊び始めた。テレビを見る子あり、ゲームを開く子あり。
くららさんもようやく目を覚まし、お風呂に行ってくると部屋を出ていった。
帰るために荷物を全部まとめ上げてしまった後、暇になった私はyuko_nekoさんの部屋の様子を見に行った。
「チェックアウトが10時だと思ったら11時なんだって」とyuko_nekoさん。
なんだ、まだ1時間以上ある。「そうと知っていたらもう一風呂浴びてきたのにー」
それを聞いてがっちゃんとyuko_nekoさんは、これから
応徳温泉に入りに行くんだからいいじゃないかと笑った。
そう、今日はこれから真っ直ぐ帰るのではなく、六合村の応徳温泉に寄っていこうという話になっていた。
榛名山麓から四万、草津辺りに掛けての気軽な日帰り温泉はかなり沢山入ってきたけど、この応徳温泉はぽつりと抜け落ちていて、前々から機会があったらぜひ立ち寄りたいと思っていた所だった。
結局部屋を出たのは11時ぎりぎりになってしまった。
がっちゃんが待ちくたびれた顔をしている。
子どもたちは間際までDSでポケモンバトルをしようとしていたが、やれレベルをいくつまでに制限しようとか、強いポケモンを出すの出さないのと条件に折り合いが付かず、バトルを始めたとたんに時間切れとなってしまった。
だからやるならさっさと始めちゃえば良かったのにと言ったけれど後の祭り。
全員、DSをぱたっと閉めて荷物を手にする。
もうみんなたむらの正面玄関前に集合していた。
最初にミサミサちゃんが車に乗った。
行きはお気に入りのシローさんも乗っていたのかもしれないが、彼は早朝4時に宿を出て仕事のために帰っちゃったそうで、広いターさんの車の後部座席にはミサミサちゃん一人がぽつりと乗っていて寂しそうだった。
晶ちゃんや紺碧七さんともお別れの挨拶をする。
ああ本当に晶ちゃんとゆっくり話ができなかったのが心残りだ。
紺碧七さんは、近所の酒屋で消費期限切れだけど承知の上ならあげるとタダで譲られた缶入りマスカットサワーをお土産にくれた。
だださんや、義満さんや、オリーブさんポパイさんとも今回はほとんど話ができなかった。
まあそのうちに次の機会があるよね。
私は行きと同様がっちゃんのデリカに乗せてもらった。
行きはまだ打ち解けていなかったのでお母さんの車に乗っていたまりなちゃんも、帰りはカナ、レナ、ちび姫ちゃんと一緒にがっちゃん車の後部座席だ。
相方の消しゴムさんが応徳温泉で待っているえんぴつさんもとりあえずこの時点ではがっちゃん車組。
みんなと別れを告げた後、がっちゃんのデリカとくららさんのプリウスは、西へ、沢渡経由の六合村方面へと走り始めた。
空は晴れ渡り、紅葉は盛りを過ぎてはいるもののまだまだ見頃だ。
四万温泉街を走るデリカから私は何枚も写真を撮ったが、いつも乗る助手席と違い、後部座席からだと巧く撮れない。前方はガラスの反射が写ってしまうし、サイドはスピードが速すぎて流れてしまう。
何かいい方法は無いかなぁと思っていたら、せっかくの天気だからとがっちゃんが天井を開けてくれた。
おっ、これは。
思わず開いたルーフからカメラを突き出し撮影する私。
それを見て同じことをする隣のえんぴつさん。
一瞬突き出しては撮影して引っ込めるので、何が撮れているかも判っていない。
何度もこれを繰り返していたら、後から後ろを走っていたくららさんに「変だった」と笑われてしまった。
「沢渡の源泉温度が下がっちゃったらしいですよ」と沢渡温泉通過中にえんぴつさん。
私が
沢渡温泉の共同浴場を訪ねたのは2001年のことだ。あのときはかなり熱いお湯が出ていた。子供はなかなか入れないくらいに。
それがたったの数年で40度を切るほどに源泉温度が下がってしまうとは。
天然の温泉はデリケート。
その一方で加熱せざるを得ないとなると灯油などの燃料費高騰も痛いだろう。
泉源が枯れてしまうよりはマシだけど、療養の湯で知られた沢渡の将来が心配だ。
また四万ではそんな心配は無いんだろうか。
上沢渡川に沿ったこの道は、宇都宮と上田を結ぶ日本ロマンチック街道の一部になる。
民家は少なく、山里の雰囲気が残された街道だ。
やがて道は上り坂になり、暮坂峠を越える。ここは若山牧水の像と詩碑があることで知られている。
高度が上がると紅葉は姿を消し、冬めいた景色になってきた。今まで濃紺の晴れ空だった頭上にもいつの間にか雲が増えている。
蛇行する山道に、まりなちゃんとちび姫ちゃんが苦痛を訴えた。
「気持ち悪い〜」
車に弱いレナには事前に酔い止めを飲ませていたのが効いたらしい。幸い彼女はけろりとしていた。
がっちゃんが車を停めて子どもたちを降ろした。
青ざめていたまりなちゃんとちび姫ちゃんは外の空気を吸って少し落ち着いたようだった。えんぴつさんの出した梅干しも薬になったようだ。
六合村の六合は、「くに」と読む。
入山、小雨、太子、日影、赤岩、生須の六つの字名を合わせてひとつの村としている。
道の駅六合の敷地にくつろぎの湯という日帰り温泉施設がある。
正式には「六合村高齢者センター」だったらしいのだが、外看板のその「高齢者」の文字の上に何かシールを貼って半分剥がれた形跡があり、今でも「高齢者センター」と呼ぶのが正しいのかいまひとつ判らない。
でも、建物の中をちょっとのぞくと、確かに何となく「日帰り温泉」ではなく「高齢者センター」と言うのがしっくりくるような、そんな雰囲気が漂っている。
ここの駐車場で待っていた消しゴムさんと合流して、私たちはくつろぎの湯の中に入っていった。
とにかく北風が冷たく、急いで建物の中に避難したい気分だった。
スリッパに履き替えて中に入ると、どの辺が高齢者センターらしいと感じるのかようやく判った。どことなく作りが病院っぽいのだ。
でもその割に、畳の休憩室を覗くとそこには炬燵がよっついつつ置いてあったりする。
一般的な日帰り温泉の休憩室と言えば細長いテーブルだ。
それが「こたつ」。
炬燵掛けもそれぞれ統一感無くまちまちで、置いてある位置も等間隔ではなく適当。いかにも地元の年輩者が一日のんびりするのに重宝する場所という感じで思わず笑みがこぼれてしまう。
面白いなぁ、この雰囲気。
生活感にみちみちている。
浴室の暖簾は裏返っていた。
「湯」の字が鏡に映したみたいになっている。
例によって脱衣所で私はまた一番ビリになってしまった。
応徳温泉と言えば、黒い湯の花が有名だ。
でもその他にはどんな先入観も持っていなかった。
二、三年前に改築したと聞いていた割に古びた浴室。えんぴつさんに聞いたら作り替えたのは壁などの部分だけで浴槽のタイルなどはそのままらしい。
横に長い浴槽は綺麗に白濁していて、硫黄の臭いがする。
ああそれも、平地の温泉などでもときどき嗅げる柔らかいゆで卵風の臭いなどではなく、もっと荒々しい山の温泉でしか嗅げない硫黄の臭い。どこか金属っぽさのあるこの山の温泉の臭いが好きで、まさかここでこんな臭いが嗅げると思わなかった分思いがけない嬉しさだった。
さらさらと手触りも良い。
先々月に回った信州高山温泉郷などでは贅沢なくらいこういう温泉があったけど、六合村にもあったのか。
湯の花は白いものと黒いものと。
色ははっきりしているが形は小さく消しゴムかすぐらいのサイズ。逆に小さい分、ゴミと間違える人がいそうだ。
温度は程良い温度。
きもち熱めぐらいで、ここのお湯の個性とよく合っている。
手すりの所に何か結びつけてあってそれがお湯の中にゆらゆら浮いている。木の板か何かかと思ったら、温度計だった。
本当のところ、ここのお湯はすっかり気に入ってしまって、時間が許すならもっともっと入っていたいところだった。
お湯ももっとゆっくりしていきなよと言っている気がする。
でもくららさんも上がってしまったし、昼間からお風呂に入りたくないと言った子どもたちも車で待っているはず。そろそろ上がらなくちゃね。
温まり度は四万には敵わずさあっと汗が引く。
また近くを通ったら立ち寄りたい。そんな風に思う温泉だった。
お風呂から上がるともう12時半を過ぎていた。
お腹は空いているけどあんまりがっちりと食べたいという気分ではない。四万たむらの朝食バイキングをお腹一杯食べてきたからかも。
くつろぎの湯の隣には同じ応徳温泉を引く花まめという小綺麗な旅館が建っている。
そしてさらに隣には道の駅六合の施設。花まめは道の駅六合が運営する宿なのだ。
古民家を移築したらしい女性受けしそうな瀟洒な作りで、泊まったことがあるよとyuko_nekoさんが言った。日帰り入浴は受け付けていないが1万円未満で泊まれるそうだ。
道の駅で何か食べられるかなとみんなは坂を上り始めたが、そうだ、ここまで来たらいっそのこと野反ライン山口という手もあるぞと私は思った。
「イノシシ焼き肉が美味しい店があるよ。道の駅の隣」
みんなは、焼き肉ほどヘビーなものを食べたい気分じゃないんだよなと口々に言う。
とりあえず店だけでも見てみようとみんなでつらつらと歩き始めると、何と空から何かがぱらぱらと落ちてくる。
「天気雨かしら」
日は射しているのに。
慌てて私たちは野反ライン山口の軒下に入った。柱に「千客万来」と書かれた古びた紙が貼ってあり、そこに細面のキツネの顔が描かれていて笑ってしまった。天気雨はキツネの嫁入りと言うものなぁ。
野反ライン山口はパパのお気に入りの店だった。
二回ほど入ったことがある。
外観は郷土料理の店なのだが、何故か店内は焼き肉屋仕様で座敷の各テーブルにはロースターがビルトインされている。
みんなは焼き肉を食べる気分ではなかったのでむしろ入り口に張り出してあったまいたけ丼だのうどんだのいうメニューに惹かれて店の中に入ったのだが、何故か店の中に入ったとたん、やっぱりせっかくだから焼き肉を食べるかーと誰かれともなく言い出した。
気が付くと半数以上がイノシシ焼き肉を注文している。
入り口近くの椅子に可愛らしい顔つきの犬が座っていたが、触りたいと言ってまりなちゃんが近づくと威嚇して歯をむき出した。眠いのか、子供が嫌いなのかどちらからしい。
この店のイノシシ焼き肉は脂身をじりじりとよく焼いて食べるととても美味しいのだが、今回は残念ながら赤身が多かった。
赤身は他の所よりも多少柔らかいのだが、それでもイノシシ肉自体が硬めなのでどうしても噛みきるのに苦労する。
脂身が多いともっともっと美味しいんだけどな。みんなをこの店に誘ったのは失敗だったか。
野反ライン山口は以前はここで食事を食べると六合村の公共温泉の割引券を譲ってもらえた。私も頂いたことがある。
でも今、昔貼ってあった割引券に関する張り紙は見あたらず、その代わりにテーブルに気になる紙が置いてあった。パソコンか何かで画像と文字を組んでカラープリンターで打ち出したような手作り感溢れる紙だ。
「京塚温泉しゃくなげ露天風呂」とある。
それを見たがっちゃんは、「これから行く温泉が決まった」と言った。
イノシシなんて食べたらせっかくお風呂に入った後なのに焼き肉の煙が髪についちゃうなんて言っていた女性陣も二つ返事で賛同した。
くららさんだけは名残惜しそうに「私はこれで帰ります」と言った。
がっちゃんは野反ライン山口のご主人に京塚温泉ってどんなところです?と聞いて、「広い露天風呂に源泉どばどば」とすっかり煽られていた。
そして食事を終えて外に出ると、くららさんはまりなちゃんを後部座席に乗せてプリウスを発進させた。
駐車場の出口でUターンして、手を振ってお別れ。
残されたメンバーは、yuko_nekoさん、がっちゃん、ちび姫ちゃん、えんぴつさんとえんぴつさんを迎えに来た消しゴムさん、そして我が家のカナとレナと私。
目指す先は今回最後の温泉、京塚温泉しゃくなげ露天風呂。
「京塚温泉、京塚温泉・・・名前だけはどこかで聞いたような気もするけど、場所もどんな温泉なのかも全然知らない」
「私も」
結構群馬によく来ているはずのメンバーの誰も京塚温泉がどんな温泉なのか知らなかった。
知らなかったのにたまたま入った食事処で見つけるなんて、何か縁があったのかもしれない。
がっちゃんと消しゴムさんの車は連れ立って野反湖方面へ走り出した。
京塚温泉に入るには「鍵」が必要で、鍵を管理しているのは野反ライン山口と繋がりのある国道沿いの豆腐屋らしい。そしてその豆腐屋のことはyuko_nekoさんとがっちゃんは知っていた。温泉云々は別にして、以前この辺りに遊びに来たときに豆腐を買ったことがあるんだそうだ。
山道を登っていくと、時折鮮やかな紅葉が目に入るが、もうほとんど木は葉を落としている。道の先には野反湖があって、そこはもう分水嶺の先、野反湖の水は太平洋ではなく日本海側に注ぐはず。
豆腐屋は山の中なのに小洒落た作りだった。
豆腐アイスが食べたいねなんて私たちは言っていたが、残念ながら豆腐と加工品は今日は全て売り切れだった。
卓上には蜂蜜がある。「日本みつばちのハチミツ。今年は24本です」とある。美味しそうだけど・・・私の蜂蜜の使い方だとあっと言う間に無くなってしまいそうな・・・。
と、横でえんぴつさんが美味しい蜂蜜だと一瓶なめちゃいますよねとか言っている。誰かが「熊か〜」と言ったので吹き出してしまった。これ一瓶抱え込んでなめたら、プーさんみたいにドアにはまって出られなくなったりして。
隣の囲炉裏の端にはなめこ汁。「どうぞご自由に」と書かれて椀が伏せてある。yuko_nekoさんが一杯飲んでいた。私はもう焼き肉でお腹いっぱいで。
問題の京塚温泉の鍵は壁のホワイトボードに下がっていた。
大人一人500円、子供一人300円払って、私たちはその鍵を借りた。
京塚温泉は豆腐屋から車で1分。
豆腐屋とガソリンスタンドのコスモ石油の間の角を曲がる。
「ここだ」
ただっ広い空き地のようなところでがっちゃんは車を停めた。
目の前に不揃いな竹垣を組んだ塀がありそこにぽつんとドアが付いている。「しゃくなげ露天風呂 無断入浴禁止」と書かれた木の板が張られていて、何故か「入場券入れ」と書かれた郵便受けが付いている。いや、本当にタダの郵便受け。一般家庭の門の所に取り付けられているような赤いやつ。
よく見ると竹垣の左隣にはもうひとつドアが付いているようだ。
そして竹垣の右隣にはプレハブのような小屋。
左右にドアが付いていて、それぞれ「男湯」「女湯」とカレンダーの裏に文字を書いた紙がガムテープで貼られている。女湯の方には入浴客がいるようで、靴が一足ぬいである。
さて、私たちが豆腐屋から借りた木製ホルダーには、鍵が二つ付いていた。またホルダーには「川端の湯 入浴手形」と書かれている。
対するドアは四つだ。
小屋の男湯、女湯、竹垣の露天風呂、その左隣のドア・・・全てに鍵が掛かっている。
がっちゃんはひとつひとつ鍵穴に差し込んでみた。
その結果、小屋の鍵は開けられず、竹垣の露天風呂とその左隣のドアがこの手形の鍵で開くことが判った。
さらに鍵を差し込んで露天風呂のドアを開けた私たちは思わず感嘆の声を上げてしまった。
「こりゃ凄い」
野反ライン山口に置いてあった紙に、50人入れる大露天風呂と書いてあったが、広さよりも何よりもこの開放感。
ちょうど白砂川を見下ろすロケーションで、眼下に谷川、正面に切り立つ山肌、そして冬も間近い寒々しい荒涼とした景観が待っていた。
「えー、これ、本当に貸し切り状態でいいの?」
みんなびっくりなのだ。
がっちゃんが谷を覗き込んで、おー、源泉どばどば捨てられてるーと嬉しそうに言った。
パイプから排出されたお湯は惜しげもなく谷に捨てられていく。
お風呂は岩風呂で、吹きさらしだが周りに簡易な屋根を付けた脱衣棚がある。
脱衣棚の足下は簀の子が敷いてあって、他に一休みできるようなベンチもある。
寒い時期は少し辛いが、一応基本的な設備は整っている。隅の方に個人の持ち物とも思われるようなボトル入りのシャンプー等が置いてある。
ところでこの露天風呂、混浴なのだろうか?
もう一つの鍵で隣のドアを開けてみると、どうやらこちらが女湯兼貸切風呂らしい。貸切風呂と言っても鍵がないと入れないという点では大露天風呂も大差ないのだが。
とにかくこちとら男性と女性と両方いるのだから、仕方なく男女に分かれてドアを潜った。
さっきの応徳温泉で子どもたちはお風呂に入らなかったから、ここではみんなで入ろうと話をしていた。
貸切なら気兼ねないし。
しかし、雲が増えてきて朝以上に冷え込んできたこの気候で、吹きさらしの脱衣棚を使い脱衣するのはなかなか辛かった。子どもたちはぶるぶる震えながら支度して、ざばざばお湯を掛けると中に入っていった。
時折ぱらぱらと雨がちらついて来たので、ぬいだ靴も屋根の下に避難させた。
お湯は熱すぎずぬるすぎず、ちょうど良いくらいだった。外気温が低いので、のぼせずにゆっくり入っていられそうだ。
お湯の色は僅かに緑色がかって白濁して見える。底の岩に苔が生えてきているのかぬるりと滑るので注意しながら入った。
パイプからどぼどぼお湯が溢れていて、その近くにyuko_nekoさんとえんぴつさんが座っている。
硫黄の臭いがするとか金気臭がするとか言っている。
くさい臭いも混じっているとyuko_nekoさんが言うが、さっき焼き肉を食べたばかりなので手に煙が付いているからだという結論に達した。
私には硫黄の臭いと金属の臭いの他に、青竹のような臭いが感じられた。揮発してくる成分がつんと竹のような刺激臭に感じるのだ。
とにかく全体としてどこの温泉に似ているとも言いきれない複雑に混ざり合った臭いだった。とても強いという臭いではないのに、ブレンド具合が微妙というか。
味もゆで卵プラス金属。
肌触りはきしつく。
温まり度はそれほどでもない。
入っていて、何だか不公平感を感じた。
隣の大露天風呂は50人入れるサイズで景色も凄く良かった。それを男二人で独占している。
こちらの女湯は4、5人でいっぱいサイズ、おまけに隣同士なのにどうも展望が良くない。そこに何故か女6人でぎゅうぎゅうと入っている(大人3人+子供3人)。
「そっちはどう?」
塀越しに呼びかけてみる。
「うーん、最高」
「ずるい〜」
「どうせ貸切なんだから両方入れば? 交替してあげるよ」
よっしゃあと私たちはいったん上がった。
子どもたちはいつものようにポケモン人形を使って湯船の中でのんびり遊んでいるようだったので女湯に残し、私たちだけ大露天風呂に移動することにした。
でもバスタオル、車の中に置いてきてしまったからいったん服を着るしかないか。
流石にドアの向こうは道路に面した空き地風で、もし誰かが通りかかったらみっともないことこのうえない。
私たちは慌てて服を着て隣に移動した。
がっちゃんと消しゴムさんは良い湯だったと上がって広い露天風呂を明け渡してくれた。
移動のためだけに着た服なので、ちゃんと全部は身につけず、とりあえず一枚だけ着ている感じ。
だからぬぐのも早かった。
ふと振り返ると今度は私が一番ビリではなかった。やっぱり脱衣所でビリになるのは私が沢山着込みすぎているかららしい。
「やったー」
女三人で50人用露天風呂を占拠した。
「絶対こっちの方がいいね」
目の前の雄大な景色に目を奪われる。
今でこそ葉も落ちて初冬の装いだが、もし紅葉真っ盛りの時期だったら稀にみる絶景風呂になること間違い無し。
ちょうど斜面の途中に九十九折りの道路があるのか、単独のライダーがエンジンの音を響かせ登っていくのが見えた。
「あのライダーくん、ぜーったいこんなところに露天風呂があるって知らないよね」
お湯そのものも大露天風呂の方が貸し切り女風呂より良かった。
湯船が広いので全体としてどうだかは判らないが、湯口から出るお湯そのものはこちらの方が生き生きしていた。
臭いがずっと新しい。同じゆで卵の臭いでも向こうはちょっと古そうだった。
湯口から出ている量の違いなどで違って感じられるのかもしれない。
お湯、景色、広さ、開放感・・・全部こっちの方が上じゃないか。
やっぱり不公平だ。
えんぴつさんが頭を洗い始めた。
私はどうせ入るなら良い温泉と思っているが、頭を洗うなら寒くなくて設備の整った浴室と思っている。
でも見ているとどうもえんぴつさんは良い温泉に入ると頭も洗いたくなるようだ。確かに温泉で頭を洗うと髪の反応を楽しめるということもあるが。
それを見てyuko_nekoさんも頭を洗い始めた。
これは結構危険な行いだったようで、yuko_nekoさんはこの後風邪を引き込んでしまったらしい。何しろここはあまりにも寒かったのだ。
ちなみに私たちが女湯男湯両方に入って温泉を満喫している間、がっちゃんと消しゴムさんはたまたま隣の湯小屋に入りに来た地元の人に、湯小屋の方のお風呂を見学させてもらっていた。
簡素な共同浴場風で四角い湯船。
露天風呂を一般開放している代わりに、湯小屋の方は地元の人専用。月に3,000円払い、交替で清掃業務を行うことによって入浴の権利を得るという。
この京塚温泉、正式に一般入浴を受け付け始めたのは今年の9月からなのだとか。
しばらくの間はかなりの穴場かもしれない。
いろいろな偶然が重なってここに誘導されてしまった私たち。
消しゴムさんは、わざわざ群馬までえんぴつさんを迎えに来てラッキーだったーと呟いていた。
十分京塚温泉を堪能した後、私たちは再び豆腐屋に戻り、鍵を返却した。
いよいよここでえんぴつさんや消しゴムさんともお別れだ。
みんなめいめい帰途につく。
「じゃあね」
「またね」
まだ期日も決まらない次の約束を口にしながら豆腐屋の外に出る。
ふいにサーッと北風が山から吹き下ろし、風とともに白いものが空を舞った。
私たちは同時に空を見上げた。
「・・・初雪だ」
驚いたことに雪が舞っていた。
青空に紅葉という晩秋の群馬を訪ねた私たちは、この日、何時の間にか去ってしまった今年の秋の後ろ姿と、厳しい冬の訪れを見たのだった。
それじゃ、また!