1.四万たむらの休日ふたたび
初日 2007年11月17日(土) |
一昨年、温泉ファンが集い、
四万たむらの花湧館で忘年会を開いてからまる二年が経ってしまった。
あまりに楽しかったので去年もまたやろうと一度は企画されたのだが、結局様々な事情があり延期となった。
今年また、あの企画が帰ってきた。
二年経って何もかも以前と同じとはいかない。
変わってしまったことも、新しくなったことも多い。
私も本当は欠席の予定だった。
パパの仕事が土曜日も詰まっていたので、出席を一度は諦めた。
それがまたこうして紅葉の終わり掛けた上州路を四万へ向かっている。
あの日と同じように紅葉は遅く、今年も11月半ばの山の麓はまだ赤や黄色の彩りが日差しを反射して冬の前の賑わいを見せていた。
一度は決めた欠席を翻したのには二つ理由があった。
ひとつめは、今回はただの忘年会ではなく、友人のだだ星人さんと晶ちゃんの結婚お披露目会を兼ねていると言うこと。
ふたつめは、ひとつめの理由で何とか出席したいと思った私を、パパの替わりにがっちゃんとyuko_nekoさんが車に乗せていってあげると提案してくれたことだった。
がっちゃん車の同乗メンバーは運転手がっちゃん、助手席にyuko_nekoさん、二列目にえんぴつさんと私、三列目にちび姫ちゃん、カナ、レナの子供達三人組。
途中の道の駅おのこで、まりなちゃんを連れたくららさんと合流して、最初に向かった先は吾妻渓谷近くの
吾妻峡温泉天狗の湯。
ここは、いわゆる八ツ場ダム建設がらみで掘削された地元民のための温泉で、今は基本的に地元向けに営業しているが、いずれ大型センター系日帰り温泉として建て替えられることが決まっている。
yuko_nekoさんとがっちゃんはここが大好きで、四万や草津へ行くときにはよく立ち寄っているらしい。私も一昨年の四万の帰りに二人に連れていってもらったところだ。
個人的にはやはり八ツ場ダム関連で掘られた四つの温泉のうち、天狗の湯と
林温泉かたくりの湯を除く二つに行ってみたかったが、林温泉に行くまでに道に迷って散々な思いをした記憶があるので、残りも迷わずに辿り着ける自信が無く無難なところで天狗の湯再訪となった。
天狗の湯は他の三ヶ所と違い、湯船も広めだしちゃんとした休憩室もある。お湯もぬるめなので子供たちを入れるにも向いている。
受付の人に料金を払うとき、がっちゃんたちは「今日もお世話になります」と挨拶している。すっかり顔なじみになっているようだ。
浴室へ移動すると先客がいらしたがすぐに上がってしまわれた。
広い窓から黄金色に染まった紅葉が見えてとても贅沢なお風呂に思える。一昨年来たときもそうだった。
みんなで入るときいつも思うが、必ず自分が一番ビリになる。
自分も子供も髪が長いし、子供も二人いるから全部で三人の髪をまとめたり、寒がりなので人より一枚も二枚も多く洋服を着込んでいるせいもあるのだろう。
今回も気が付くと一番最後に浴室に入っていた。もうみんな掛け湯も終えて湯船でくつろいでいる。
入って右手に掛け湯槽があり、正面に長方形の湯船。窓に面した縁のほぼ中央からどぼどぼと惜しみなく源泉が投入されている。
ほんのりと柔らかい硫黄の臭いがして、後から金属の臭いが立ち上ってくる。
「あまり臭わない日もあるんだけど、今日はいい感じ」とyuko_nekoさんが言った。
独身のえんぴつさんを除いて、私とyuko_nekoさんとくららさん。三人とも連れてきた子供は年の近い女の子だ。くららさんには中学生の男の子もいるが、今回は母と娘だけの二人での参加だ。
ちび姫ちゃんが一番年上で小学五年生。カナとまりなちゃんが四年生。レナが二年生。
ただ、我が家のカナレナと、yuko_nekoさんちのちび姫ちゃんがこのところ月に一回のペースで会って遊んでいるのに対し、くららさんちのまりなちゃんはもう一年も前に、私たちと一度、
鳴子に旅行に行ったきり、さらにちび姫ちゃんとは初対面になる。緊張して一歩引いている。そうだろうなぁ、みんなばらばらならともかく、他の三人はもうがっちり固まっちゃっているものね。
この後、四万たむらに着いたらもう一人、小学四年生のミサミサちゃんが合流するはずなので、総勢五人の女の子たちがどんな風に遊ぶのか楽しみ。
「どこから来たの?」
天狗の湯の休憩室で話しかけてきたおじさんは、私たちがそれぞれ東京や神奈川から来たと聞いてびっくりした。
「よくこんなところ知っているねぇ。普通は草津とか四万とか行くもんじゃないの?」
蛇の道はヘビで・・・いやいや、違う違う、「四万に行く途中なんです」
でもおじさんも地元の人ではなかった。群馬の人だったが、吾妻川流域には仕事で来ているのだった。
「ここ以外の八ツ場ダム関連温泉の場所を知りませんか?」と私たち。
まだ行っていない二つのうち一つ、横壁温泉はおおよその場所は知っているが、とにかく林温泉の時に場所が記載された二種類ほどの地図を持っていたにも関わらず道に迷ってぐるぐると回ってしまった経緯があるから、目印やポイントがあるなら知っている人に聞いてみたいと思っていたのだ。
「そんなものあるの? ここだけだろう?」
ここは知っていても、あいにくと他は知らないらしい。
「おばちゃんに聞けば判るよ」がっちゃんは今度は天狗の湯の受付のおばちゃんに聞きに行った。
「えっ、ダム関係の温泉? ここだけじゃないの?」
意外なことに受付のおばちゃんも知らなかった。場所を知らないだけでなく、存在そのものを知らないらしい。
たまたまこのときに玄関を通りかかった地元の入浴客も「他にダムの温泉なんて無いよ」と笑っている。
みんな自分の地区以外にも同様の目的で作られた温泉があるとは思いもしないようだ。
天狗の湯で情報が得られたら横壁温泉に行ってみようと思っていたが、結局手持ちの地図で真っ直ぐ着ける自信が無いので私は諦めた。
横壁温泉なら今ここにいるメンバーの誰も入ったことがないので面白そうだと思ったのだが。
お気に入りの温泉をリピートするのも良いのだが、それ以上に自分がまだ知らない温泉にどんな驚きが待っているか知りたがるタイプなのが私、そしてたぶんくららさんも。
横壁温泉は私の希望だったが、yuko_nekoさんは
温川温泉に行きたがっていた。浅間隠し温泉の三軒のうち一軒だ。
浅間隠し温泉郷にはそれぞれ独自源泉を持つ三軒の宿がある。
三軒の宿はそれぞれ、レトロ感溢れる佇まいと木の浴槽の
鳩ノ湯温泉三鳩楼、茅葺き屋根と滝見の露天風呂で最近かなり知名度を上げた薬師温泉旅籠、そして最後がその
温川温泉白雲荘。温川温泉が一番素朴な雰囲気で、目の湯と呼ばれる露天風呂がある。
yuko_nekoさんはずいぶん前に温川温泉に入ったことがあるようだが、ぜひ再訪したいと言っていた。
ちょうどお昼時でお腹が空いてきたこともあり、私たちは天狗の湯を出た後、浅間隠し方面に車を走らせた。
yuko_nekoさんが温川の近くに美味しそうな食事処があったはずと言ったのも決め手になった。
紅葉真っ盛りの晴れた上州路。
奇怪な岩櫃山の聳える郷原で145号線から別れ、吾妻川の支流に沿って浅間隠し方面に向かう。浅間隠しとはちょうどこの辺りから浅間山を見るとそれを隠すように手前の山が邪魔をするため、標高1,757mのその山を浅間隠山と呼んだため。
「この辺だと思うんだけど・・・つぶれちゃったかしら」
yuko_nekoさんが心配そうに言ったとき、春駒食堂という焼き肉屋が見えてその先に探していた店があった。
里の茶屋と書かれた暖簾も品良く外観からとても期待できそうな店だった。
店の主の趣味は陶芸なのか、入り口を入って直ぐに渋い、けれどなかなか使えそうな手作り小皿や箸置きの並んだ売場がある。
私たちは奥の座敷席へといざなわれた。
ところがこの座敷がまたべらぼうに寒い。
正直言って外から入ってきたのに外より寒い。
注文を取りに来た奥さんは、いらっしゃると前もって判っていれば部屋を暖めておいたのですがと恐縮したが、それは無理というものだ。
お風呂上がりだったみんなは割に薄着で、特にくららさんなんて半袖だったため慌てて着替えていた。メンバーはがっちゃんを除いて女ばかり。子供達も四人とも女の子。がっちゃんが目をつぶっていてくれればここで着替えられるかもとくららさんは言ったが、料理を運んできて襖が開いたらアウトだからとみんなは慌ててトイレを指さした。何しろ半袖の上から上着を着るのかと思ったら、半袖の下に着る服だったらしくいきなり脱ぎ出しそうになっちゃったから。
里の茶屋は蕎麦もうどんも手打ちだった。
めいめい、天ぷらだのキノコだのの入った麺のメニューを選び、さらにyuko_nekoさんたちはベーコンも頼んだ。私は鴨せいろと、子どもたち用に卵雑炊を。
最初に運ばれてきたベーコンがもうみんなの注目の的。
見た目から美味しそうだったが、食べると期待以上。みんなで一切れずつ頂き、「美味し〜い」と絶賛。
次に雑炊が運ばれてきたが、子どもたちはゲームに夢中で食べたがらない。無理に茶碗によそったが、中に入っている貝割れがお気に召さない様子。とにかく軽く一杯だけ食べさせて、後は私のうどんをあげた。結局三人で卵雑炊と鴨せいろうどんの両方を分け合った感じ。
分け合っているのは私たち一家だけでなく、あちこちでこの汁にうどんだけじゃなく蕎麦も合わせてみたら、とか、天ぷらひとつどうぞとか、お皿がぐるぐる回っていた。
この店はなかなかヒットで、できればあのベーコンだけでも買って帰りたいと思うほどだった。
食べ終わった後に、浅間隠しのどこに行こうかという話になったが、前述の通りyuko_nekoさんの希望は温川温泉白雲荘、新しいところを開拓したい私はできれば薬師温泉旅籠、実は浅間隠しの三軒全てに入ったことのあるくららさんは車の中で待っているからと言いだした。
だがしかし実は選択の余地など無かった。
ふと時計を見ると思ったより時間が経っていた。どうも天狗の湯の休憩室でゆっくりしすぎたらしい。これはもう温泉に入っている暇はなくて真っ直ぐ四万へ行かなくてはならない。
というわけで、浅間隠しは温泉ではなく美味しい食事を食べに来ただけで終わってしまった。
今回の忘年会の幹事は紺碧七さん。サポートに、前回の幹事であり、密かに裏幹事とおぼしきだだ星人さん。さらに裏々幹事に四万温泉の重鎮、そば屋中島屋の主である小枝子パパがいる。
その小枝子パパの店は四万温泉の新湯、ちょうど四万たむらや積善館があって賑わっているあたりから近い狭い通り、レトロな食事処やスマートボールが軒を連ねる落合通りにある。
一昨年はここで昼食を食べてから会場に行こうとしたら、参加者ほぼ全員が中島屋で昼食を食べていた。示し合わせたわけでもないのにだ。
今年はもう昼食を終えていたので真っ直ぐ四万たむらに向かった。
いや本当に真っ直ぐ。
だって新湯の道は真っ直ぐ走ると、そこはいつの間にか公道ではなくたむらの入り口で、ただ走っているだけで坂の上では正面に茅葺き屋根の堂々としたたむら正面玄関が待っているのだから。
その日本的でありながら高級感溢れる玄関口に車をつけると、さっと二人ほどの従業員が寄ってきてお泊まりのお客様ですか?と慇懃に尋ねてくる。
「全国温泉友の会ですが・・・」
このちょっと口にするのも恥ずかしい冗談のような名称は・・・本当に冗談だ。全国温泉友の会などという秘密結社は実態が無く、この四万たむらでの忘年会時に予約名称として使われている。
「はい、承っております」
既に幹事達がチェックイン手続きを済ませてくれたようで、私たちは下足を履き替えるためだけに四万たむらの入り口を潜った。
そう、下足を履き替えるためだけに。
私たちが泊まるのはゴージャス四万たむらの本館右隣に控えめに建つ花湧館。四万たむらは高級旅館で知られているが、この四万たむら花湧館はむしろリーズナブルなお宿であり、かつお風呂だけは四万たむら本館や系列の四万グランドホテルに泊まった人たちと分け隔てなく、それら全てのお風呂に入れる。
だから大変にコストパフォーマンスが良い。
ただひとつの問題があるとすれば、隣に建つ四万たむら本館があまりにきらびやかなので必要以上に卑屈に感じることぐらいだろうか。お風呂に行くだけなら「借りている」という気分でそれほど気にならないのだが、最初のチェックインの時にたむらのロビーに入ると雰囲気に圧倒されてしまって、その後案内される花湧館館内の慎ましい様子にショックを受ける人も多い。重ねて言うが、最初からお値段相応なのだからたむら本館と比較さえしなければ何も問題ないのだが。
今回もチェックインは済んでいるのだからたむらのロビーに行く必要は無いと思ったのだが、「下足はこちらで」と案内されて仕方なくたむらに入った。
靴は従業員が預かり、代わりに番号札を渡された。
後は館内の地下廊下を通るか、サンダルに履き替えて外から花湧館に移動する。外を通った方がずっと近い。
花湧館に入るとすぐに幹事の紺碧七さん、一昨年の幹事にして今回の裏幹事のだださん、そしてだださんと今回結婚お披露目をする晶ちゃんが出てきた。
この週末は満室のところ、裏々幹事の小枝子パパが忘年会のために8室キープしてくれたが出席人数が多かったため部屋割りには苦労したと聞いている。
我が家はくららさん親子と同室で、トイレは付いていないが庭の見える比較的広い部屋。yuko_nekoさん一家とえんぴつさんが同室で少し奥まった場所にあるトイレ付きの部屋になった。
玄関に一番近い部屋が飲み会会場予定と聞いたが、私には飲みだす前に行きたい場所があった。相談すると、えんぴつさんとくららさんも一緒に行きたいと言う。
私たち三人は挨拶もそこそこ、タオルだけ手にして花湧館を後にした。
それほど歩くわけではないから、私とえんぴつさんは花湧館の玄関に並べてあるサンダルを履いていた。
くららさんだけはサンダルだと歩くのに不安があるのか、たむらの正面玄関に寄って自分のロングブーツを出してもらってきた。
このサンダル、花湧館だけでなく、たむら本館のお客様もちょっと外へ出るときには同じものを使う。木の下駄とは言わないまでも、天下の四万たむらのお客様が使うにはあんまりと言えばあんまりなシロモノ。
たむらの前の坂は意外と急で、確かに下手な下駄や草履では脱げてしまって危ないのだ。坂で結ばれている四万たむらと四万グランドホテルは宿泊客が自由に両方のお風呂に入れるため、これら宿の履き物で行き来する人も多く、それなりに消耗も激しいだろうからあまり高級なものを使えないのは判らないでもない。
それにしてもあんまりだよ。
「だってこれじゃベンジョサンダルじゃん」と私たち。
たむらさん、もうちょっとこれは考えた方がいいよ。
急ぎ足で私たちが向かったのは四万温泉の共同浴場 四万川と新湯川が合流する荻橋の袂にある石造りの
河原の湯だ。
ここは観光客でも無料で入らせてもらえる代わりに、朝の9時から午後3時までという時間制限がある。3時を過ぎると清掃時間となり、その後は施錠され、鍵を所有する地元の人たちのみが入浴する時間となる。
私の今回の四万訪問にはもうひとつ目的があった。
一郷一会という温泉好きの集まるグループがあるのだが、そこで作っている
関東周辺100名湯プロジェクトというのがあって、100湯を決める際にまぐぞーさんと私が
四万の御夢想の湯を押して、その責任から私が御夢想の湯のレポートを書いたものの、2005年12月に御夢想の湯がリニューアルしてからレベルダウンしたと100湯リスト落ちしてしまって、結果、代わりに入る温泉を決める際、日向見の中生館が候補に挙がる中、またまた強引に私が河原の湯を押した経緯もあり(長すぎる文章だ)、とにかく私が河原の湯のレポートを書かなくてはならなくなったのだが、あいにくとしばらく入っていなかった私には荷が重すぎて、今回ようやく再訪が叶うこととなったものだ。
先々月にも
万座の帰りに四万に立ち寄ってはいるが、中島屋で蕎麦を食べて時間切れとなり、念のため鞄にタオルは忍ばせておいたものの結局そのときは入ることができなかった。
実はかなりプレッシャーだったのだ。
レポートを書かなくちゃいけないってことじゃなくて、書くために何とかして河原の湯に入りに行かなくちゃいけないってことが。
移動はいつも家族単位だし、何処へ行くにも私の希望だけが通るわけじゃないから。
そんなに気楽でも身軽でもないのよ、実は。
紅葉した蔦が屋根に絡まる河原の湯は、半円筒形をした独特の建物で、男女別ではあるものの脱衣所も狭く中も小さな浴槽がひとつあるだけだ。
石垣を積み上げたような外壁のデザインは、浴室の壁にも使われている。ところどころに鳥や花のパネルがはめ込まれ、浴槽の縁は黒っぽい御影石でできている。
ふわりと金属の臭いが漂った。
錆びた金属ではなく、ぴかぴか光る金属面を研磨したときに臭うような感じの臭いだ。
味見をしたくららさんが「スプーンを舌に乗せた時の味がする」と言った。巧いこと言うなぁ。それだ、それ。
心持ち熱めだが、熱すぎることはない。石の浴室は湯気で熱されてサウナのようになっている。
このお湯に逢いに四万まで来たのだと、そんな風に思った。
冷えた指先までじんじんと温めて、ゆるゆるとまとわりつく。
ふと隣のえんぴつさんを見ると、極楽の蓮の花の上でうたた寝でもしているかのような表情をしていた。
名残惜しかったが適当なところで切り上げて、今度は私たちは落合通りの中島屋へ向かった。
河原の湯から中島屋はすぐだ。
そういえば四年前、私が初めて河原の湯に行ったのも中島屋の小枝子パパにすぐ近くだから入ってから帰ればと勧められたからだった。
当の小枝子パパは実は今の河原の湯に建て替えられてから(何年前だ?)まだ二度しか入ったことがなかったとは、後から聞いた。
後からと言うか、つまり話が前後するが今夜、飲んでいる席で聞いた。
「いつもグランドホテルの風呂にばかり入っているからさー、今更と思って久しぶりに入ったら、凄い良い湯でやんの」
いやはやもったいない話。
もうそろそろ3時を回って店の入り口はカーテンが引かれているようだ。
蕎麦は売り尽くして店じまいだろうか。
そうっと覗こうとすると、待ってましたと言わんばかりのいたずらっ子のような小枝子パパが顔を出した。
「もしかして、見えてました?」
中島屋の店先やグランドホテルの坂など、実はグランドホテル屋上などに中島屋が設置したライブカメラで一部始終が撮られている。ついでに言うとその画像はインターネットで
リアルタイム全国公開中だ。
と言っても画質的に人の顔まで判別できるわけではないから問題は無いはず。
ただまあそんなわけで、小枝子パパは私たちの来訪をライブカメラにて密かにチェックしていたらしい。
「よく来たねぇ」
まあまあ中へと誘われ、私たちは客でもないのに図々しく店の椅子に腰を下ろした。どうやら中島屋ではそろそろ店じまいして後片付けに掛かろうとしていたところらしい。
小枝子パパは奥から赤い包みを持ってきた。
「これ、ごりるさんからの差し入れを預かっていたから」
ごりるさんというのは私の掲示板に時々来て下さる方で、たまたま中島屋のキャンペーンで特盛り四段蕎麦が当たり、先日ここに食べにいらしたのだ。そのときに忘年会の差し入れにと、この包みを置いていって下さったようだ。
包みの中身はお煎餅。
醤油で有名な野田の「大川や」という煎餅屋のもの。煎餅の名前は「とね川」。
こちらは子連れの家族で有りがたーく分けさせていただいた。
そこへ何故かyuko_nekoさん登場。お風呂に入りに来たわけではなく、薬を買いに来たという。薬と言っても誰かが病気になったわけではなく、飲み過ぎ防止に「うこん」の錠剤を求めてのこと。ところが当てにしていた薬屋が閉まっていたらしく、困っていた。
「まあまあ一杯どうぞ」
何故かyuko_nekoさんに生ビールのジョッキが渡される。
ちなみに私たちは女将さんにコーヒーを頂いていた。
中島屋の看板といえば年を感じさせない元気なおばあちゃんの笑顔だった。
去年おばあちゃんが亡くなってから、看板役を引き継いでいるのは齢三つのあおいちゃん。
小枝子パパの孫娘だ。
今日もパッチワーク風のスカートでご機嫌。物怖じせずにこにことお話ししてくれる。
奥からあおいちゃんのママもあらわれた。あおいちゃんのママというのは、つまり小枝子パパの娘さんだ。
腕にはちょうど一ヶ月前に生まれたばかりのじゅんせい君を抱っこしている。
あおいちゃんとじゅんせい君・・・すぐ判る人もいると思う。私たちは判らなかったが「冷静と情熱のあいだに」だそうだ。
タオルにくるまれたじゅんせい君はふにゅふにゅだ。髪の毛はしっかり生えそろって、小さなお口はぎゅっと結ばれている。
というか、あれ?
「産後一ヶ月ってまだ無理しちゃいけないんじゃないの?」とyuko_nekoさん。
「いやー・・・産後すぐに店の手伝いとかしてましたから」
「安静にしていないと駄目だよー」
みんな口々に言う。彼女はお腹が大きいときにも笑顔で仕事をしていたもんな。
「ねぇねぇ、じゅんせい君、抱っこさせてもらってもいい?」
「どうぞどうぞ」
抱っこすると本当に軽い。それにこの甘いような酸っぱいようなミルクの匂いが何だかとっても懐かしい。
ついつい手放したくなくてしばらく揺すっていると、じゅんせい君は眠ってしまった。
こんな顔も軽さも赤ちゃんのうちだけだよね。可愛いなぁ。
小枝子パパとはまた後で会えるからと店を後にした三人組。
yuko_nekoさんは真っ直ぐ
四万たむらに戻ってしまったが、どうせ坂を下りているんだからと私たちが次に向かった先は
四万グランドホテル。
前述したとおり四万たむら、四万たむら花湧館、四万グランドホテルはそれぞれどこに泊まっても全てのお風呂に自由に入ることができる。
四万グランドホテルには、二ヶ所の浴室があって、地階にある方は大浴場の岩舟の湯と露天風呂の室生の湯、最上階にあるのは展望風呂メルヘンの湯だ。
私は一昨年、岩舟の湯と室生の湯には朝風呂で入った。
メルヘンの湯は未湯だ。
四万グランドホテルも四万たむらに劣らずきらびやかだが、こちらは雰囲気がまるで違う。
四万たむらが個人客を対象とした和風情緒溢れる高級感があるのに対し、四万グランドホテルはいかにも団体観光客向けだ。
ところで私たちはグランドホテルに行くつもりで花湧館を出たわけではなかったので浴衣を着ていなかった。
浴衣無しで四万たむら系列宿泊者と見なされるだろうか。
「大丈夫、このベ○ジョサンダルがあるよ」
実は私は一昨年も浴衣ではなくこのサンダル一つで身の証をたててグランドホテルの風呂に入ったのだ。
くららさんは自前のブーツだが、サンダルを履いている私とえんぴつさんと一緒なら疑われることはないだろう。
うーん、かっこわるいとか、いまいちだとか言いながらも、このサンダルを履いてきた甲斐があるというものだ。
事実、四万グランドホテルの玄関から堂々と入る私たちの足下を品の良い仲居さんたちはチラチラと確認していた。
仲居さんの一人がお風呂の説明をしてくれて、蒸し風呂などのある大浴場に行かれるのでしたらあちらの階段をと教えてくれた。
私は前回、階段のことを知らず、別の方向にあるエレベーターを使ってお風呂に行こうとしたらえらい遠回りだった。帰りに初めて階段の存在に気づき、そこから戻ってきたらあっけないほどロビーは近かった。
とにかく教えてもらった右手の階段を降りると、そこで靴を脱ぐようになっている。
四万たむらや花湧館など、旅館形式の宿ではまず玄関で靴を脱ぐのに対し、グランドホテルは一応ホテルなので館内は基本的に土足なのだ。
靴を脱いで進むと、その先にマッサージコーナーがあって、それから男女別に別れている。
脱衣所でもたもたしているとまたまた私は一番ビリになっていた。
浴室のドアはボタンを押すと開く自動ドアになっているが、反応が鈍い上にどうやって閉めるのかよく判らない。ついもう一回ボタンを押してみる。当然反応無し。仕方なく力づくで閉めてしまった。
実はこれは一定時間が経過すると自動で閉まるのだった。でもきっと私と同じ過ちを犯す人が多いような気がする。
広い浴室は湯気が充満して薄ぼんやりと見える。
ようやくくららさんやえんぴつさんを見つけて、一緒に露天風呂に出てみた。
この露天風呂、展望が悪い。
地階にあるので無理ないのだが、塀と屋根の間にちらちらと庭木が見える程度。
見える木の枝は秋の色。
くららさんやえんぴつさんに、男湯の方が眺めが良さそうだと言われて、隣の少し高い場所にあるのが男湯なのだと思い当たった。
室生の湯は気持ちぬるいくらいだった。
臭いなどは特に感じられず、良い肌触り。
力を抜いてくつろげるようなお湯だ。
四万のお湯はどこもよく温まる。しばらく入っていると外の寒さを忘れるほどだった。
室生の湯の四角い浴槽の隣に、直接お湯がそそぎ込まれる樽風呂が二つある。
上がり掛けにえんぴつさんがそこに入ってみた。
「どう?」
「狭い分、何だか損したような気がする」
あはは。
浴室を出て、靴を履き、目の前のエレベーターに乗ろうとした私たち。
ちょっと待て。
階段の方を上がる。振り返るとロビーからエレベーターは見えない。
(ちなみに本当はこのエレベーターはロビーにもちゃんと停まるそうです。階段の裏に停まるので見えにくいそうで。この話は後から小枝子パパに教えていただきました)
もう外は暗くなっていた。
グランドホテルを出て振り返ると三台も大型観光バスが停まっていた。目の前からは四台目が入ってくる。
「やっぱりグランドホテルは団体向けなんだね」と私たち。
団体観光客による温泉旅行は減るばかり。
そもそも今の人たちは団体行動嫌いだもの。この先益々減ると思う。
金持ちも庶民もこれからは家族単位が主流になるだろう。
何年か先、ずっと大型観光バスが連なってやってくるか少し心配になってきた。
部屋に戻るともうミサミサちゃんもやってきて、私とくららさんの部屋は完全に子供部屋と化していた。
ミサミサちゃんはだださんの後輩であるターさんの娘で、いつも父娘で参加している。前回まではMちゃんと呼ばせてもらったが、父であるターさんが「ミサミサ」と呼んでいたので私もそう呼ばせてもらおう。ちなみに本名は私も知らないよ。
子どもたちのメンバーは、yuko_nekoさんちの小学五年生のちび姫ちゃんを筆頭に、くららさんちのまりなちゃん、ターさんちのミサミサちゃん、うちのカナが揃って小学四年生。うちのレナだけが小学二年生。
全員DS大好き。
全員ポケモン大好き。
一昨年の四万では覇権争いから緊張の走っていたちび姫ちゃんとミサミサちゃんだが、今回は仲良し。また、さっきまではなかなか中に入れず一歩引いていたまりなちゃんもすっかりとけ込んでいる。
女の子五人、とてもいい感じに遊んでいた。
見ていると、ちび姫ちゃんとミサミサちゃんが積極的にリーダーシップを取りたがるが、実際に全体を統括しているのはしっかり者のまりなちゃんとカナだったりする。
お風呂から戻ってきた私たちは、もう既に飲み会部屋でみんな飲み始めていると誘われて、そちらに顔を出したものの、席に着くか着かないかのうちに食事時間が来てしまった。
飲むのも摘むのもまずは大広間宴会場でとなりそうだ。
今回も前回同様宴会場は四万たむら本館の花みずきの間。
前回はぐるりと円に卓が並べられていたのだが、今回は縦に四本のライン上に並べられていた。
子供用の卓は一番端の列に三つと、隣の列にぽつりぽつりと離れて二つ。
「子どもたちは一緒にした方がいいよねぇ」と私とyuko_nekoさん。きっとみんな一列に並んで食べたがる。
しかしそこにやってきた子どもたちの中でミサミサちゃんだけが「私、一人だけ別でもいいよー」
聞くとどうやらお父さんが連れてきた後輩のシロー君なる男性がお気に入りで隣に座りたいよう。
よし、じゃあ子供の卓を五つ並べて、一番端をミサミサちゃんに。ミサミサちゃんの隣はそのシロー君で決まりだな。
「えー、何言ってんのー、私、クラスに好きな子いるんだよー」
おー、ミサミサちゃん、やるねー。小四にしてふたまたかい。
「違〜うっ!!」
宴会は幹事の挨拶から始まり、あっと言う間に無礼講。
私は隣に座ったくららさんとしんみりと飲んでいたのだが、ちょうど背中側に座っていたのがだださんの飲み友達、サンダーバードチームのTさんとOさん。
「ねぇねぇ」といきなり話しかけられ、「この全国温泉友の会って何よ」と真顔で聞かれる。
「実態は、全国温泉友の会などというものはありません」と私。
「えっ、無いのー? 俺さぁ、全国温泉友の会だからって言われて来たんだけど、偉い会長さんとか副会長さんとか、そういうのいるんじゃないの?」
「いません。全国温泉友の会というのは名前だけ、それもこの何年かに一度の四万温泉での忘年会の時にだけあらわれる幻の名称です」
「じゃあさー、インターネットってなんか楽しいの? 俺さぁ、奥二重なんだけど、子供の頃は一重だったんだよ。それが大人になったらいつの間にか二重になったわけ。そういう方が楽しいと思わない? インターネットで知らない人と何んかするよりさー」
あーはいはい。
もう酔っぱらっていて支離滅裂。
まあとにかく宴会場での宴会がお開きになったのが夜8時。
私たちは9時になったらイベントがあるから飲み会室に集まってと言われていったん解散と相成った。
今日のヒロインの晶ちゃんがささやく。
「なにー? なにー? 聞いてないよ、イベントなんて」
部屋に戻るともう布団が敷かれていた。
子どもたちは早速ゲームを取りだして遊ぼうとしたが、それを中断する。
「今のうちにお風呂に入って来ちゃった方がいい。遊び始めて途中でやめるよりも、お風呂から上がってから気兼ねなく遊んだ方がいい」
子どもたちは不承不承という顔で承諾した。
「ポケモン何匹連れていっていい?」
この場合のポケモンというのは、ポケモンキッズというお菓子のおまけに付いてくる指人形サイズのソフビの人形だ。
「一人二匹まで。右手と左手で一匹ずつしか世話できないでしょ?」
「三匹でも持てるよ、ほら」まりなちゃんが三本指を立てて、その三本に一匹ずつポケモン人形をはめて見せた。
「ああ、まあいいや。今日のお風呂は透明だから三匹まで許可する。いつでも三匹までOKって訳じゃないからね。濁っているお湯の時は落とすと見えなくなるからもっと少ないよ」
とと・・・三匹までと言ったけど、子供は五人もいるのだから3×5で15匹も連れていくのかい。無くならないように注意しなきゃ。
ターさんにミサミサちゃんの入浴を頼まれたので、私とyuko_nekoさんとくららさんと三人で五人の子どもたちを翠の湯まで連れていった。
翠の湯というのは四万たむら花湧館の館内にあるお風呂だ。
浴槽の縁も底も木でできていて、特に底の木が簀の子状で、その下からお湯が出るように作られている。
豪華さは無いが木のお風呂の良さをしみじみと感じるようなところだ。
いつものように私が脱ぐのはビリだった。
子どもたちのパジャマをそれぞれが脱いだ脱衣籠にセットしたりしているうちに遅くなってしまった。
最後になったと思って浴室に入ると、何故か他の大人は誰もいなくて小学生の子供ばかり仲良く五人並んで頭を洗っていた。何だか妙に可愛らしい図だ。
私は気づかなかったが、yuko_nekoさんはトイレに寄っていたようで私より後から入ってきた。くららさんは今は入るつもりはなく、子供を送ってきただけのようでその後戻ってきてずっと脱衣所で待っていた。
子どもたちはみんな自分たちで洗い、それからめいめいのポケモンを連れてお風呂の中に入った。
私も髪を洗った。
それからのんびり翠の湯に入った。
四万たむらや四万グランドホテルの源泉はほとんど臭いがない。源泉そのものにはあるのだろうが元々淡いのでお風呂ではほとんど臭わない。
でもこの翠の湯と、本館の御夢想の湯はほんのりと浴槽の木の香りがする。油系の温泉の臭いにも似て、私はここが好きだ。
お風呂上がりにようやく飲み会会場に移動。
既にみんな出来上がっている。
というか、既にこの飲み会の前の花みずきでの宴会で既に出来上がっており、そのまた前の夕方の段階で半数以上が出来上がっていたような気がする。何しろ入館してすぐに幹事達が会費を徴収に来たが、その時点で表幹事の紺碧七さんの手には既に酒のコップが握られていたぐらいだから。
8時のイベントって何だろうなぁと思っていたらyuko_nekoさんがケーキカットだよと教えてくれた。
どうりで晶ちゃんには内緒のはずだ。
とにかく主役達が来ないことには始まらない。
私たちはそれまで飲んでいようとてんでに場所を決めて座ろうとしたとき、義満さんから差し入れのとげの立つ新鮮な胡瓜が回ってきて、さらに入り口の方から誰かが入ってきた。
腰を浮かせて覗いてみると、なんとさっき中島屋で会ったばかりのあおいちゃんが女将さんと一緒に立っていた。
「あおいちゃーん」
あおいちゃんはえへへとはにかむ。
廊下に出てみると、じゅんせい君を抱っこしたあおいちゃんのママもいた。
どうも飲み会会場にお寿司の差し入れを持ってきて下さったようだ。
ちょうどいい。
私はつい二日前に
TDLに行って、あおいちゃんとじゅんせい君、そしてだださんと晶ちゃんにお土産を買ってきていた。
ただ、カナとレナは自分たちであおいちゃんたちに渡したいと言っていたのでさっきはもって出なかったのだ。
カナとレナを呼びに行った。
でも情けないことにカナはゲームに夢中で顔も上げない。レナが一人でお土産を渡すことになった。
「あおいちゃんにはこれ。じゅんせい君にはこっちね」
出産祝いなんて立派なものじゃないけど、直接渡すことができて良かった。
あおいちゃんのママと廊下で立ち話をしていると、誰かがケーキカットが始まるよと呼びに来た。
飲み会部屋に入ると、もう机の上に「おめでとう だだ&晶」と書かれたプレートを乗せた丸いケーキが準備されている。
みんなに押されるようにだださんと晶ちゃんが前に進み出る。
と、ターさんが晶ちゃんの代わりにだださんと一緒にナイフを手にした。
「違う違う」
「あ〜」
みんな大騒ぎ。
学さんや紺碧七さんが音頭をとり、ようやくだださんと晶ちゃんにナイフが渡った。
二人のナイフがケーキに入り、みんな取り囲んでシャッターを切った。
誰かがわざと電気を消したりしたのでもうてんやわんや。
とにかくケーキ入湯・・じゃないや、入刀は無事終わり、みんなは乾杯した。
なお、後で聞いた話だが、ケーキイベントを準備してくれたのは本庄ネットの学さんで、どうやらケーキは普通のケーキではなくアイスクリームでできたアイスケーキだったようだ。
「ようだ」と言うのは、私の口には入らなかったため。
飲むのに夢中になったみんなはその後ケーキを部屋の入り口に置いたまましばらく忘れてしまったらしく、残念ながらケーキはかなり溶けてしまったらしい。
但し、若干一名溶ける前に気づいてそのケーキを食べた方もいたようだ。辺りを見回して、スプーンもフォークも無かったため、茶筒を開き茶匙でこっそり召し上がった模様。
「だってそのままにしておいたら溶けてしまうからもったいないと思って」
ごもっともですとも。くららさん。
我が家では子供の就寝時間は9時と決まっている。まあ最近では9時にベッドに入れてもその後1時間ぐらい姉妹でぺちゃくちゃとおしゃべりしている日もあるが。
そろそろ子どもたちの寝る準備をさせようと思っていた。
もうお風呂上がりにパジャマ代わりの服に着替えさせているし、布団も敷かれている。後は歯を磨くだけだ。
「今、歯磨きを済ませたら、後は好きなだけ起きていてもいいから。というか、寝たくなったら寝れば良い」
旅行の時は規律も弛む。お友達と一緒の夜だし、とりあえず好きなだけ遊ばせようと思っていた。
「とにかく歯を磨こう」
「は〜い」
歯磨きセットを出し、コップに水を入れる。子供部屋に洗面設備がついていないのは仕方ない。廊下の水道で磨かせる。
子どもたちの寝る準備が整ったら、私は行きたい場所があった。
前々から四万に来る度にyuko_nekoさんとがっちゃんが飲みに行くという店「あすなろ」にちょっと連れていってもらおうと思っていた。
あすなろはたむらの坂を下って積善館の前を通り、さらに荻橋近くまで歩いて、橋よりはちょっと手前。土産物屋の高田屋とバス停の間の引っ込んだ所にある。
一応トンカツ屋ということになっているようだが、yuko_nekoさんたちの話を聞いていると飲み屋のイメージの方が強い。
ラーメンなども置いているが、何でも息子さんは本格的な中華の勉強をした人だそうで、料理全般侮れない美味しさなのだとか。
味以上に聞こえてくるのはあすなろマスターの人柄のウワサ。
エンジンが掛かっちゃうと飲めや飲めやであのyuko_nekoさんすらつぶれるまで帰れないという。
だからぜひとも四万に泊まる機会があれば寄りたいと思っていた。
あすなろ・・・いったいどんな店?
「いらっしゃーい」
カウンターの中で出迎えてくれたマスターは、yuko_nekoさんたちの話を聞いてイメージしていたよりインテリな雰囲気の小柄な人だった。
もうすっかり顔なじみのがっちゃんたちはにやにやしている。
店はまだ空いていて、私たちは適当な席に座った。
「ここのソテーが旨いんだよ」とがっちゃんが言うのでまずはソテーを注文する。
やってきたメンバーはyuko_nekoさん、がっちゃん、えんぴつさん、くららさん、そして私。
早速yuko_nekoさんたちがマスターに「秘蔵のあれをちょうだい」と言う。
秘蔵のあれ、とは、メニューでも裏メニューでもなく、うこんの錠剤のこと。事前に探したyuko_nekoさんはついに四万温泉の薬局で手に入れられなかったらしい。
しょうがないなーとマスターは錠剤を出した。
「これしかないよ」
三人分。
既にドリンク剤のうこんを飲んでいたyuko_nekoさんとがっちゃんは私たちにその錠剤を譲ってくれた。
「これを飲むと翌日、楽だよー」
そんなに効くのかと私も飲ませてもらった。ごっくん。
なんか怪しいクスリでも取り引きしているみたいだな。
「錠剤はあれしかないけど」と、マスターはうこん酒も作ってyuko_nekoさんの前に置いた。
ソテーが来るとくららさんがワインが飲みたいと言い出した。
「そうだよね、これにはワインが合いそうだよね」とyuko_nekoさん。マスターにワインは無いか聞いてみる。
「無いよ」
そこをなんとか。
マスターは探して一本持ってきた。
もしかしたら自宅用だったかもしれない。
「これでもよけりゃ」
もうまったく我々は我が儘な客だった。みんなでワインを飲みながらソテーをつまむ。
いつの間にか次々とお客さんが入ってきて、見回すと店内はほぼ満席になっていた。
「寒いよね」
マスターに別れを告げて一歩店の外に出ると北風が身にしみる。
つい二日前まで暖かい日が続いていたのが嘘のようだ。おかげで今日まで紅葉が残っていたが、一気に冬が来たような冷え込みだ。
だれかれともなく、これはお風呂に入って温まって帰らないとね、という気になっていた。
そして私たちは全員何故かしっかりとタオルを持参していたのだった。
あすなろのすぐ目の前に四万グランドホテルが建っている。
ちょいと夜はグランドホテルで仕事をしているはずの小枝子パパの様子を見に行こうと、まずはグランドホテルの中に入った。
例によって足下はたむらサンダルだ。
仕事を終えて後片づけ中の小枝子パパにちょっとエールを送って、それから私たちはグランドホテルを七階まで上がった。
目指すは展望大浴場メルヘンの湯だ。
メルヘンの湯って凄い名前だ。
「どこがどうメルヘンなのか見てやろうじゃないの」
こうメルヘンって言うと、お菓子の家があったりフォークロアな衣装の子供が踊っていたり、クマやウサギがうろちょろしていたり、妖精が飛び交っていたり・・・?
エレベーターを降りるといきなり白雪姫のこびとみたいな白い像があった。
「ま、まさかこれがメルヘン?」
くららさんと顔を見合わせる。
他にもご婦人の湯と書かれた札の下がる台がやけにファンタジックだったり、部分的に天井がアーチ型をしていたり、絨毯が花柄だったり、正直なところ、取って付けたようなメルヘン状態だった。
・・・あんまりこれ、喜ばれないような・・・。
脱衣所から中は普通だった。
普通でホッとしたが、メルヘンらしさも特に無い。
もう夜なので展望大浴場の売りが漆黒で塗りつぶされていて残念だ。
たわんだ円形の浴槽は大ホテルの展望浴室としては思ったほど大きくなかったが、他にお客さんはちらほらといる程度で十分な広さだった。
お湯はやっぱりホッとする良い湯。
特に強いものは無いが、芯から体を温めてくれる。
メルヘンの湯の湯口は浴槽の中から突き出す黒い三角錐の中央だった。
そこからひたひたと湯面に弧を描いてお湯が出ている。
えんぴつさんがこの三角錐にぺたっと張り付いた。
くららさんが「熱くない?」と問う。
「ぜーんぜん」
時間湯で鍛えた彼女にはメルヘンの湯ごとき何ともないようだ。
「そうなんだよね、時間湯に入ってから熱い湯が平気になっちゃって」と私も言う。
「体内の温度センサーが壊れちゃったんじゃないの?」とくららさんは言うが、熱いものは熱い、ぬるいものはぬるいとちゃんと判るのだ。ただ、平気で入れるようになってしまう。
私もえんぴつさんの真似をして、三角錐にぺたりと張り付いてみた。
「大丈夫、熱すぎないよー。ちょうどきもちいいかも」
そんな私にくららさんは変だ変だと繰り返し、私たちは益々ぺったりと張り付いた。
端から見たら絶対変だと思うけど。
あすなろで盛り上がって思ったより遅くなってしまった上に、小枝子パパの仕事場に寄ったり、メルヘンの湯でのんびりしてしまったりしたので、私たちが花湧館に戻ってきたのはもうとっくに12時を回っていた頃だった。
子供部屋を覗くと子どもたちはちゃんと布団に入って寝ていた。はみ出している子はいないようだ。
後で聞いたらどうやら子どもたちもみんな12時近くまで起きていたらしい。
レナが真っ先に寝てしまい、それからみんな布団に潜って寝てしまった。私たちが帰ってきたのはその直後だったようだ。
私はそれから飲み会部屋を見に行ったが、部屋の中で飲んでいるのは知らない人ばかりだった。
私の知っている温泉系の人たちは誰もいなくて、だださんの飲み仲間のサンダーバードチームだけがわいわいと懇談していた。
なので私はまたくららさんたちの待つ、yuko_nekoさんやがっちゃんの部屋に舞い戻ってきた。
えんぴつさんやyuko_nekoさんは時々飲み会の部屋に行ったりしていたが、私はその後ずっとがっちゃんたちの部屋でくららさんたちと飲んでいた。
とりあえず自分が持参した無濾過発泡ワイン クラノオトが滅茶苦茶飲みやすく、あっと言う間にくららさんと一本空けてしまった。
この部屋にもサンダーバードチームの一人や最後には小枝子パパも入れ替わり遊びに来たりして、話し込んでいるうちに午前3時も回ってしまった。
もうとっくにがっちゃんは寝ている。
yuko_nekoさんももう寝ると言う。
えんぴつさんがお風呂に行こうかなと言った。
「行く行く、私も」
温泉でお風呂に行く話は逃さない。
日頃はこういう会でもほぼ12時にはお先に失礼と寝てしまう私にとっては午前3時過ぎまで起きているというシチュエーションは誠に珍しい。
というか、有り得ない。
なのに目は冴え渡り、全然眠くない。
これはこれでやばいかも。
眠れなくなっちゃうかな。
それとも明日ダウンするかな。
えんぴつさん、くららさん、私の三人がまず向かったのは御夢想の湯。
御夢想の湯と言っても
四万共同浴場の御夢想の湯ではない。四万たむらの中にも同名の浴室があるのだ。
御夢想の湯に行くという私たちに小枝子パパが御夢想の湯はリニューアルしたばかりだよと教えてくれた。
リニューアル?
二年前来たときにも十分綺麗だったような・・・。
小枝子パパが言うには天井がいかれてしまったのだそうだ。まだ浴室を作ってそんなに長いこと使っていなかったのに。湯気抜きが巧くいかず、天井部分の木が朽ちてしまったようだ。お風呂の構造は難しい。
確かに御夢想の湯は天井部分が新しかった。
もうとにかく真夜中も過ぎて廊下でも浴室でも誰にも会わない。みんな寝静まっている。こんな時間まで起きている自分が阿呆だという気がしてくる。
静まり返った浴室にお湯の流れる音だけが響く。
ああ、何だか贅沢だ。
くららさんは御夢想の湯から上がった後、一人で部屋に戻ると言った。
流石に限界のようだ。既に午前3時半をとうに過ぎている。
えんぴつさんは岩根の湯に行くというので私も性懲りもなく付いていく。
「岩根の湯はちょーっと臭いが違うんですよ。そこが好きなんですね」とえんぴつさん。
そう言えば私はまだ岩根の湯に入ったことがなかった。四万たむらの花湧館に泊まるのは二度目なのに、まだ岩根の湯と甍の湯には入ったことがない。
特に岩根の湯は小枝子パパのお勧めだったはずだ。確か源泉に近いから他のお風呂よりお湯がいいって言っていた。
岩根の湯は御夢想の湯からすぐで、やっぱり通路でも私たちは誰にも会わなかった。当然岩根の湯も無人だ。がらりと戸を開けると、意外に年季の入った石とタイルの浴室が待っていた。
新旧いろいろなところで木の浴槽や岩の浴槽はよく見るが、タイルの浴槽というのは不思議と古めかしく感じる。懐かしいような感じがする。
えんぴつさんは髪の毛を洗い始めた。
私はもうさっき、子どもたちと翠の湯に入ったときに洗ってしまったので先にお風呂の中に入ってみた。
・・・おや。
確かにお湯が違う。
えんぴつさんの言う臭いはあまり感じ取れなかったけれど、浴感がまるで違う。
硬いと言うのだろうか。
お湯が硬いなんて変かもしれないがとにかく硬く感じる。四万のお湯は全般的に柔らかいと言うより硬いところが多いが、ここは顕著に硬い。
手足にまとわりつくお湯が面白いほど硬く感じる。
「ねえねえ、えんぴっちゃん、ここ、お湯が硬いよね」
「硬い硬い、そーですよね。私も硬いと思っていたんですよー」
もうじき朝の4時。
どこまでもハイになったまま、私たちは湯船を独占していた。