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那須の紅葉旅


初日 2005年10月22日(土)



 10月の声を聞くと、旅好きはそわそわする。
 北から紅葉が南下してくるのはいつごろだろう。
 そろそろ山の上では木々の葉が赤く染まっているだろうか。

 6月に佐野で田植え体験した稲がそろそろ稲刈りの時期を迎える[田植えの話は湯西川小旅行参照]。
 しかし、9月の終盤になっても体験申し込みをしてある佐野のJA安佐からはいっこうに日程決定の知らせが来ない。
 業を煮やして電話をしてみた。
 相手は植物だから生育具合など見て稲刈りの日を決めるのは判るが、なにしろ行楽シーズンの10月。ぎりぎりに言われても宿が取れない。
 相手は「泊まりで来るんですか?」と吃驚したようだ。
 ・・・確かに。
 田植え体験に東京から来るということ自体珍しいのかもしれないが、さらに佐野に来るのにわざわざ山奥の湯西川に宿を取るような物好きは他にいるまい。
 「決定次第、葉書を送りますので」
 それから1週間ほどで葉書は届いた。
 しかし、既に決定された稲刈り日までは2週間少ししか無かった。

 「今度は湯西川はやめよう」とパパ。
 うん。朝10時までに佐野に移動するのはきつかった。
 「塩原か・・・那須」
 地図をめくりながら真岡か馬頭のあたりに宿を取る手もあるかなぁと思っていた。
 しかし・・・10月23日でしょ。那須塩原ではそろそろ紅葉が始まっているんじゃなかろうか。
 せっかくだから塩原にしようよ。
 そう決めたのは既に10日前。
 いろいろ探して良さそうな宿に電話を始めたのがちょうど1週間前。
 一軒、二軒・・・六軒ほどの宿に「満室です」と丁重に断られた。
 調べれば調べるほど、どうしてもここに泊まりたいと思う宿が限られてきて、どこでもいいやという気にはなれなかった。
 それに今年の紅葉は遅れているとかで、塩原にはまだ降りてこないようだったし。

 那須はこれぞと思う宿が一発で取れた。
 「古〜い宿ですけど」
 「構いません」
 「素泊まりしかやってませんが」
 「構いません」
 それが雲海閣だった。



 いつものように朝は4時半起き。
 5時には出立。
 昨夜から、出かけるときには起きるからねと言っていたカナは、その言葉通り目を覚まして自分で荷物を持って車に乗った。
 レナもいったんは目を覚ましたものの、車に揺られてすぐに寝付く。
 パパは昨日、高速道路料金を、早朝夜間割引と通勤割引を併用して約半額近くに割り引く裏技を編み出し、早朝の東北道は順調に流れていく。
 しかし空模様はどんより・・・。
 いつもいつも晴れを呼ぶはずの我が家が、唯一雨に泣いたのは去年の草津旅行。ちょうど一年前のことだった。
 どうも紅葉を見に行くときに限って雨が降るのだ。

 高速道路上でぱらぱらと降ってきた雨は、その後も降ったりやんだりしながら続いた。
 那須ICから那須湯本まで、那須街道を通ればほぼ直線で10数キロ。
 だがこの季節、いったん渋滞すると酷いことになると、栃木に詳しい流れ星さんの掲示板で流れ星さんやTakeさんに教えていただき、ひとつ手前の西那須野塩原ICで降りて、裏道を行くことにした。
 途中で左前方に那須岳。
 那須高原大橋を渡ってから左に曲がる抜け道は判りにくいのではないかと思っていたが、南が丘牧場・湯本の看板があちこちに出ていてほとんど迷わずにすんだ。

 あっ、硫黄の臭いがする・・・と思ったら、もう那須湯本だった。
 でも今は素通り・・・泊まる予定の雲海閣の場所もよく判らなかったし、鹿の足湯は見えたけど共同浴場の鹿の湯の場所もよく判らなかったが、覚えのある九尾の狐伝説の殺生石を左手に見ながら、あとはもう一直線にボルケーノハイウェイを登っていった。

 那須は実は何度も来たことがある。
 今みたいに温泉を回るようになる前で、もっと正確に言うと、こんな風に温泉が好きになるきっかけのひとつが那須だったとも言える。
 だいたい仲間とわいわい貸別荘というのが定番だった。
 きっかけの温泉は大丸温泉旅館。
 二回、立ち寄り入浴したことがある。
 川をそのまませき止めた露天風呂は、上流が女性専用になっていて、下流に大きな混浴露天風呂がある。
 当時は混浴なんて冗談じゃないと、女性専用にしか入らなかった。

 一番最後に那須に来たのはカナを妊娠しているとき。
 このときは温泉に入ってない。
 おりしも百武彗星が近づいているときで、妊婦でありながら夜を徹して天体観測をした。
 関東近郊でもできるだけ灯りの少ない暗い夜空を探して、那須の北温泉までやってきた。
 別に泊まるわけじゃなくて、駐車場に望遠鏡を設置しようとしたのだが、常夜灯の明かりが眩しく、場所を移した。
 結局、マウントジーンズスキー場の駐車場で観測した。
 あの星空は忘れない。

 子供たちを連れて奥日光などには何度か行っているのに、そういえば那須にはぷっつりと行かなくなっていた。
 別にこれぞという理由があったわけではないのだけれど。

 湯本までの道のりでもちらほらと色づいた木が見えていたので、紅葉が始まっているんだなと思っていたが、ボルケーノハイウェイを登り始めると、辺りの木は残らず黄色く色づいていた。
 赤みは少ない。
 パパが「黄葉は地味だよな。だからみんな紅葉を植えたがるんだよな」
 そういえば群馬の榛名湖周辺など、せっせと紅葉の苗を道の脇に植えていた。いずれ紅葉の名所にしようというなかなか気の長いプロジェクトだったね。

 空は灰色に曇っているが、ガスは出てないし雨も降っていないので、去年の草津旅行よりは何倍もマシだった。
 あのとき白根山をドライブして、あまりに何も見えなくて呆れたことを思い出した。
 今日の那須岳はすっかり色づいていて、今日が快晴だったらどんなにか綺麗だろうと溜息が出る。

 朝8時。
 大丸に着いた。
 昨日の朝のニュースで、今まさに栃木県の大丸で紅葉が真っ盛りと放送されたばかり。
 天気さえ良かったら絶好の紅葉狩り日和のはずだ。
 立ち寄り入浴は旅館ニューおおたかにお願いするつもりだった。
 お湯だったらもっと良いところがあるけれど、このシーズンなら眺めの良いニューおおたかがお勧めと流れ星さんが教えてくれたからだ。
 場所が判るか心配だったが、ハイウェイからすぐ目立つところにニューおおたかは建っていた。
 何故か公式サイトでは朝8時からとなっている日帰り入浴受付時間が、入り口の所では7時半からと書かれていた。
 まあどちらでもいいけど。
 もう8時過ぎだから。

 ニューおおたかの正面に公営の駐車場がある。
 朝なのにもう満車に近い。この先にある大丸温泉旅館に泊まった人や、山歩きの人の分などもあるのだろう。
 ここからの眺めは良い。
 煙った平野部が遠く見渡せ、振り返れば錦に飾られた那須岳がそびえている。

 「ごめんくださーい、立ち寄り入浴をお願いしたいのですがー」
 ニューおおたかのフロントは無人で、声を張り上げても誰も出てくる様子がなかった。
 奥からぼそぼそと聞こえる話し声のようなものはテレビの音らしい。
 しばらくしてやっと食堂の方から女性が出てきた。
 「はい、入浴ですね」
 あまりやる気が無さそうだ。
 「お風呂はどちらですか?」
 「そこを真っ直ぐ行って下さい」

 さほど広い浴室ではなかった。
 朝一番でまだ誰も入っていないらしく、湯気が籠もっている。
 ケロリン桶がきっちりと山形に積んであるのが好感が持てる
 ごく薄く白濁したお湯で、薄いゆで卵臭がする。
 掛け湯をして入ると、以外にぬるい。体温プラスアルファぐらい。
 那須の茶臼岳など歩くと、そこここでシューシューと熱い蒸気が大地から噴き出し、その周辺が硫黄で黄色くなっている。
 だから絶対お湯も熱いと思ったのに、ここは加水しすぎ。
 30パーセントは水増ししていると脱衣所にも明記されていた。
 夏場じゃあるまいし、何で?
 さらに加水理由は源泉温度が高いため(ちなみに源泉温度は71.7度)となっていてそこまでは判るが、冬季間のみ露天風呂は気温が低くなるため加温すると併記されている。
 矛盾していない?
 納得できない・・・。

 内風呂は深め。
 今日は外気温もかなり低いので、お湯から出るのが辛いほどだった。
 内湯に小さなドアがついていて、そこから露天風呂に出られるようになっている。
 出てみると、4、5人用の四角い露天風呂があった。
 何故か四方八方から圧注浴の湯が出ている。
 狭いし囲われていて展望はほとんどないが、それでもなんとか岩と建物の間に紅葉は見える。
 ということは、絶景紅葉風呂は男湯だ。
 残念。
 パパはさぞやいい思いをしていることだろう。

 きしきしとくるお湯だ。
 あまり温まらない。
 でもいいや。のんびりしちゃえ。
 子供たちがあがるあがると言わなければ、もうちょっと湯面に映る紅葉を見ていたいところだった。



 さて、お風呂から上がってみると、すっかり那須岳は雲に包まれていた。
 さっきまではあんなにはっきり見えていたのに、かなりガスが降りてきたようだ。
 もうこうなると、もともと今にも降りそうな天候なのだから、何も見えなくなってしまうだろう。
 紅葉露天風呂に入るには、本当にいいタイミングだったと思う。

 お風呂の後は子供たちをZooに連れていくと約束していた。
 Zooと言っても本格的な動物園という意味ではない。カナが英会話に通っていて、ちょうどZooという単語を覚えたばかりだったので使ってみただけだ。
 那須周辺には動物関係のテーマパークのようなものが沢山ある。
 その中で選んでみたのは那須どうぶつ王国。
 先日キャンプの時に、友人の晶ちゃんが家族で使ってねと有り難くも入場券を4枚くれたからだ。
 出発前に公式サイトで調べたら、入場料は大人1,800円もするらしい(公式サイトや各道の駅などで200円の割引券はゲットできる)。
 タダで入れるとなると、ここに決めてしまう安直な我が家。

 那須どうぶつ王国にはボルケーノハイウェイから那須甲子有料道路を使う道が近い。
 しかし、ボルケーノハイウェイ360円の通行料に対し、那須甲子有料道路は930円も取る。
 高い・・・。
 これについても流れ星さんが相鉄の別荘地へ抜ける道が良いと教えて下さったが、道がよく判っていないまま、いったん湯本まで降りてきてしまった。
 後から地図を見たら、那須甲子有料道路の入り口方面へ行き、有料道路に乗らずに一般道に降りれば良かったらしい。
 結局、一軒茶屋南の分岐で斜め左に入り、クアリゾート ラ・フォンテの近くを通る道から登ることにした。
 この道は、やはり流れ星さんの掲示板でおさるさんが抜け道として教えてくれたものだった。
 久しぶりの那須で、さっぱりどこがどこへ繋がっているのか判らなくなっていたが(一軒茶屋でも一度道に迷い、ラフォーレ那須の入り口に着いてしまった。ラフォーレ那須も昔、泊まったことがあるはずなのに)、そのうちに土地勘も付くことだろう。
 朝9時過ぎ。
 確かに那須街道の交差点は混み始めていた。
 こんなにガスが出てきてしまっても、みんなこれからせっせとボルケーノハイウェイを登るのだろう。



 遠回りしてしまったが、道は空いていたので9時半には那須どうぶつ王国の入り口に着いた。
 この辺りからの平野部の眺めも凄いものがある。
 見えているのは白河の平野部と福島の山々だろうか。モノトーンにぼんやりと霞み、幻想的だ。
 土曜日の朝ということで駐車場にはまばらに車が入っていた。混雑しているというほどではない。
 ゲートをくぐると那須どうぶつ王国のマスコット、冠を被った茄子顔の犬の像がある。

 那須どうぶつ王国は王国タウンと王国ファームの二つのエリアからなっている。
 入り口入って直ぐの王国タウンは、主に犬と猫のエリアで、世界のさまざまな犬を集めたドッグハウスや同じくさまざまな猫を集めたキャッテリアなどがある。
 自分の飼っている犬を連れてきてドッグパークで遊ばせるも良し、ふれあいコーナーで大人しい犬や猫に触ったり、気に入った犬をレンタルして散歩させるも良し。
 ちなみに王国温泉那須五峰の湯という温泉施設もあるが、那須では他にいくらでも良い温泉があると聞いていたので今回は入らないつもりだった。

 王国ファームの方は、広いドッグランなどもあるが他にもいろいろな動物を飼っている。
 馬、山羊、羊、ワラビー、マーラ、ミニブタ、ラマ、ウサギ、アヒルなど。
 ポニーに乗ったり動物をレンタルしたりできる。
 カナとレナにはウサギを借りることができるよと教えていた。

 少し雨がぱらついていた。
 セーターを着せていたが、それでも子供たちが寒いというのでその上からパーカーを着せてフードをかぶせた。
 最初に犬と少し遊んでからファームの方へ行こうと考えていたが、カナはもうウサギのことで頭がいっぱいのようだ。早くウサギのいるところへ行きたいと言う。
 前に富士山麓の富士スバルランド・ドギーパークで犬をレンタルしたところ、想像していたよりずっと犬というのは思い通りに歩いてくれないということを体験したカナは、もう犬をレンタルしようという気はまったく無いようだ[本栖湖キャンプ便り2参照]。

 ファームへは園内バスで行く。
 歩いて行かれるのかと思っていたら、係りの人が20分以上かかると教えてくれた。
 寒くときどき小雨が降る中を20分・・・往復で40分、子供たちを連れて歩くのはきつそうだ。
 仕方なくバス用のチケットを購入した。
 大人300円。
 一応、今年いっぱい乗り放題だと言うが、まあ今日往復して終わりだろう。

 バスは犬の形をしたバスと猫の形をしたバスとある。
 それぞれ1ワンだとか2ニャンだとかナンバーがふってある。
 私たちが乗ったのは1ニャンのバスだった。
 車体正面には猫の顔がついていて、カーブを曲がるときには警笛の代わりにニャーニャー鳴いている化け猫みたいなバスだ。
 実際、結構タウンとファームは離れていた。
 ピクニックエリアが見えてきたのでそれと判ったが、とても外でお弁当など広げる気分になる空模様ではない。

 バスを降りて最初にふれあい動物広場に入ってみた。
 山羊や羊、ミニブタなどがいる。
 隣の囲いにはワラビーやニワトリ。それから妙な生き物がいる。
 顔はウサギそっくり。体はなんとなくワラビーに似ているのだが、何故か跳ねないでとことこと歩いている。
 これはマーラというアルゼンチン生まれの齧歯類で、とてもそうは見えないがモルモットの近似種だという。
 ラマは柵の向こうで水を飲んでいる。
 たまに唾を吐くというのであまり近寄らない方がいいらしい。
 水の飲み方が変わっている。口に含んだ後、上を向かないと飲み込めないようだ。
 一番端の広場にはアヒルとカモたちがいた。
 目の前で、餌を手に持っていた男の子がいきなりアヒルに餌を奪われていた。
 うーん、うちは餌は買わないことにしよう。

 レンタル動物コーナーでは、ウサギの他にモルモット、馬、羊、山羊、ミニブタなどもレンタルできる。
 幼稚園児や小学校低学年がレンタルするならウサギかモルモットになる。
 カナは白いウサギ、レナは白と茶色のウサギを選んだ。
 係りのお姉さんはウサギに首輪をつけて渡してくれた。

 ウサギはウサギ用のコーナーで散歩させることになる。
 犬じゃなくてウサギに首輪をつけて散歩させるっていうのはなかなかシュールだ。
 レナはすぐに大喜びでウサギを追い回し、強引に引きずり回し、何度も抱っこしてあっちへこっちへ移動させてはご満悦だった。
 カナはちょっとびくびく。
 かわいがるのだが、抱っこするときもなかなかできず、こわごわという感じだ。隅の方へ逃げられてしまうと、レナのように引っぱり出すこともできず、毎回親を呼ぶ。
 ウサギたちは首に綱をつけられているからか、どちらもとても大人しい。

 レンタル時間は20分間。
 時間が来ると、渡されたタイマーが鳴る。
 カナは自分で抱きかかえて戻して良いと係りのお姉さんに言われていたのに、落とすのが怖くてパパにお願いして、レナはまだ小さいから大人がウサギを移動させて下さいと言われていたのにどうしても自分が抱きかかえるといって聞かず、仕方ないのでレナの後ろからママはウサギに腕を回して受付まで戻った。

 ちょうど10時半から牧場イベント広場で鷹匠によるバードショーが行われていたので、今度はこちらへ移動した。
 鷹匠は外人だ。ちょっとわざとらしいイントネーションで冗談を交えながらショーをする。
 最初はミミズクの滑降。
 これは夏に富士国際花園のフクロウショーでも見た[本栖湖・浩庵キャンプ場便り3参照]。
 大きなミミズクは羽を広げて、まったく音をさせずに飛ぶ。
 次は鷹。
 和名でアカモモノスリと呼ばれるこの鷹は、猛禽類の中で唯一集団で狩りをするのだそうだ。
 見物客の中から子供のアシスタントを募り、餌に見立てた引き車を引っ張らせ、鷹に狩りの演技をさせたりした。
 最後はハヤブサ。
 とても神経質な鳥なので、マスクを被って登場だ。
 ショーがスタートしてからマスクを外して目と耳が使えるようにするのだという。
 鷹匠がロープの先につけた餌をびゅんびゅん振り回してそれを襲わせる。
 ハヤブサはミミズクや鷹と違い、途中で止まり木にとまらず、スピードを駆使して弧を描きながら飛び回り、疑似餌を捕獲した。

 パパが入り口で渡されたショーのスケジュールを見ながら、今から王国タウンに戻れば猫のショーが見られると言って子供たちをバスに乗せた。
 猫のショーが行われるのはキャットハウス。屋内だ。

 既にショーは始まっていたので、ガラスの仕切を隔てて見物客が詰め掛けていた。
 キャットハウスのお姉さんがいろいろな猫たちに「お手」とか、「ちょうだいちょうだい」などをさせるのだ。
 可愛いと言えば可愛いが、なんてことないと思えばなんてことない芸だ。
 犬はちょっと教えるとこのくらいするが、猫で芸をするのは本当はきっと珍しいのだろう。
 猫たちはガラスの向こうにいるだけかと思ったが、ショー会場の一部はただのロープ張りになっていて、猫たちは気が向いたら観客席の方もうろうろして良いことになっているのだった。
 気が付くと、さっきまでお手をしていた猫が、その辺りをうろうろしていた。
 笑っちゃったのはベビーカー好きの猫。
 ずっとベビーカーを持っている家族連れの周りをうろうろしていたが、隙を見てベビーカーの上に乗っかってしまった。
 ベビーカーの主である幼児は降りていたので無人だったが、ベビーカーで丸くなる猫を見て、母親は一言「連れて帰っちゃおうかしら・・・」

 カナとレナが気に入ったのは大人しい「すなおちゃん」という名前の猫。
 逃げずに触らせてくれるので、しばらくすなおちゃんと遊んでいた。

 キャットハウスを出ようとしてびっくり。
 外は知らないうちに酷い雨になっていた。
 那須どうぶつ王国は傘を貸してくれる。どの施設にも出口に傘が常備してあり、入場者は自由に使えるようになっている。
 カナはパパと入ると言い、レナは自分一人で差すと言うので三本借りた。
 雨が降り始めたとき、ちょうど屋内施設にいて本当に良かった。
 それに先にファームに行って正解だ。
 こんな雨の中、屋外でウサギを追いかけたりしたくないし、雨が降っていたらさっきのバードショーだって中止になっていただろう。
 朝の紅葉露天風呂もそうだったけど、天気が悪いなりに、悪くない出来。いつもぎりぎりのところで最悪の状態は脱していた。

 どうぶつ王国は親切に駐車場まで傘を貸してくれたから、雨に濡れずに車まで移動することができた。
 借りた傘は駐車場の出口で返却する。
 お腹が空いてきたので何処か途中でお昼ご飯にして、それから今夜の宿に向かおう。
 雲海閣に予約を入れたとき、お昼過ぎで有ればいつでもチェックイン可能ですよと言われていたので。



 ランチは別荘街の中にある天水という蕎麦屋。
 夜にはステーキを食べようと思っているので和食にしてみた。
 那須高原の辺りは小洒落たレストランなども多く外食に困らない。
 まだオープンしてそれほど経っていないのか、天水は真新しく綺麗な店だった。

 基本的には蕎麦はざると思っているが、今日は涼しいので温かいお蕎麦にするかちょっと悩んだ。
 カナはご飯を食べたがるので、結局天ざるとカレイの唐揚げ定食を注文した。
 天ぷらは感動的にさくさく。
 お蕎麦もしゃっきり美味しい。
 カレイはパパが「こんなに小振りなカレイは初めて見た」なんて言っていたが、味はなかなか。
 蕎麦の実と味噌を練ってしゃもじにつけて焼いたのも頼んで、四人で平らげてしまった。

 ちょうど自分からは後ろに当たるので見えなかったが、食事中、レジの所に何か野菜を入れた箱のようなものが運ばれてきたようだった。
 パパに言われて振り返ると、段ボール箱に入った、葉に近い方が濃い紫で先の方が白い細身の根菜類が見えた。5本150円と手書きで書かれたポストイットが箱に張られている。
 帰りがけにパパが、これは何ですか?と聞くと、レジ係は首を傾げた後、いったん中に引っ込んだ。
 やがて店の女主が出てきて、「カブですよ」と言う。
 「どうやって食べるのがお勧めですか?」
 「サラダでも、漬けても美味しいわ。店の従業員の家で作ってるんだけど、いつももらっていて美味しいから店に置いてみることにしたのよ」
 「5本下さい」
 「今日から置いてみたの。あなたが初めてのお客さんよ」



 ところで夕食を食べる店は早々と決めていた。
 那須ショッピングセンター内にある寿々木商店の食堂だ。
 ここの名物は千円のサイコロステーキで、あまりに安くて美味しいのでテレビの取材などもしょっちゅうだと言う。
 営業時間は11時から19時と半端だが、早めの夕食にすればいいと思っていた。

 那須ショッピングセンターは那須湯本の温泉街にある。
 ショッピングセンターという名前から、綺麗で広々とした巨大スーパーマーケットのようなものを想像していると思いっきりずっこけることになる。
 それは錆びかけた食料品店というのが正しい。
 そして、午後1時。
 ショッピングセンターに到着したのだが、小さな駐車場は満杯で交通整理をする女性の指示通り向かいの駐車場に車を停めると、入り口からずらりと、雨の中傘を差して並んでいる行列に仰天したものだ。

 人気があるとは聞いていたが、こんなに並んでいるとは。
 いやいや、私たちはランチをここで取るわけじゃないからいいけど、凄い行列だな。

 列をかきわけて店内に入る。
 中は意外と広く、生鮮食料品の他、パンや菓子、雑貨なども置いてある。
 牛乳はどれも家庭用とは思えないサイズで、この辺りのペンションやレストランが調理に使うために買いに来るのだろうと思えた。
 ちょうど食堂の向かいに精肉店がある。
 パパが「ちょっとちょっと」と呼んだ。
 「この肉、あの行列の食堂で使ってる肉だよね」
 「う、うん・・・そうと思うけど」
 「だよね。店名も同じだし」
 すぐに何を考えているか判った。

 「このサイコロステーキ用の牛肉と、それからロースハムとローストビーフを下さい」
 確かにランチと違い、宿に泊まる人は二食付きが多いから夕食時はそれほど食堂も混まないだろう。
 そうは言っても見たところ、あの食堂内はとても狭そうだし、子供を連れて入るのは厳しそうだ。
 狭い分回転率も悪く、子供たちが飽きたり騒いだりしたら迷惑だろう。
 それに対してこれから泊まる雲海閣は自炊設備がある。
 焼き加減はプロには叶わないだろうが、肉は買って帰り自分たちのペースで好きに焼いた方が楽して美味しいものが食べられるに違いない。



 あとは雲海閣の場所だ。
 ガイドブックに載っている地図では、メインストリート沿いにあるようにも見えるが、入り口は裏手になるようだ。
 地図を見ながら、旅館清水屋の前で曲がらなくてはいけないと思っていたが、角を見過ごして行きすぎてしまった。
 鹿の足湯のところで車を停めて、パパが煙草を買うついでにたばこ屋のおばちゃんに道を聞いてきた。

 那須湯本のバス停の先で鋭角に曲がり、すぐにもう一度左に曲がると坂道の途中に雲海閣はあった。
 結構、泊まる宿や温泉の佇まいなど私の好みとパパの好みは違っていたりするので、心配になって聞いてみる。
 「ここだけど・・・いい?」
 「いいよ」
 彼は鄙びは好きだがB級は苦手なのだ。
 早い話が建物が古くて行き届かない面があったりしても、何故か滑川温泉福島屋みたいなタイプは大好きだったりする。
 もし気に入らないって言われたところでもう予約してあるので変更のしようもないのだが、一応気に入ったらしいのでホッとした。
 この宿の入り口は鄙びてがたもきていたが、B級の臭いはしなかった。
 また、湯本の他の宿でも見かけたのだが、鹿の湯源泉を引く宿でおそろいの大きな暖簾が真新しく、これがあるだけでもずいぶん印象が違うようだ。

 中もかなり古めかしさを感じるのは否めない。
 いつも電話予約で心配なのは、もしどこかに行き違いがあって予約が入っていないようなことがあったらということだったが・・・。
 「予約した○○ですが」
 「えっ?」
 えって? ま、まさか・・・。
 「何人様でしょう」
 「大人二人、子供二人です」
 「ああ、名前を聞き違えたみたいです。ちゃんと承っています」
 ああ良かった。

 案内された部屋は廊下の一番奥だった。
 廊下は片隅にモダン和風な洒落た飾り付けがしてあるかと思えば、意図したわけでもなくレトロな温度計があったり、床に敷かれた赤い絨毯などはぼろぼろで、妙に統一感がない。
 部屋に入ってみると、入り口を見て予想したよりずっと広くて快適そうな感じで嬉しかった。
 茶器と温泉饅頭とタオルと浴衣が用意されていた。
 このときは気が付かなかったが、浴衣には子供用のものもちゃんとサイズを合わせて置かれていた。
 滑川温泉の湯治部屋などと違って、テレビも暖房も新しいものが入っている。これなら真冬に来ても寒くない。
 一番驚いたのは奥に小部屋がついていたことだった。
 早速子供たちは、そこが自分たちの部屋だと宣言した。
 どうもこの小部屋は布団部屋の奥のスペースを利用したものらしく、一番奥の部屋のみに付属しているらしい。
 さらに景色がよいのにも驚かされた。
 この雲海閣というのは斜面に立てられていて、部屋からはちょうど湯本の町中を見下ろすようになっている。
 特に奥の部屋はちょうど張り出した紅葉の枝が真正面にあり、高級旅館の特別室でもこうはいかないかと思うような眺めだ。
 「もうちょっとこの紅葉が赤くなっていれば完璧だったのに」とパパ。

 荷物を降ろしたら早速お風呂場探検に出かけてみた。
 廊下を戻り、帳場の手前で右に曲がる。
 すると紅葉と名付けられた部屋の入り口があり、そのさらに奥に何やら地の底へ降りるような階段が続いている。

 階段を少し下りると、天井に表示が出ている。右手に明礬泉、階段のさらに下には硫黄泉があると木の板に書かれている。
 まず右手へ行ってみることにした。
 表示のすぐ右の扉がそうなのかと思ったら、これは鍵のかかった関係ない扉で、明礬泉の浴室は、もう何段か降りて右へ曲がったところだった。

 いきなり薄暗い簀の子を敷いた洗面所のような場所に出た。
 簀の子なのでこの手前でスリッパを脱いだものか迷う。
 ここが浴室かとスライド式のドアを開けてみると、脱衣所に一組のスリッパと浴衣。どうも先客がいるらしい。
 というより、ここは男湯? 女湯? それとも混浴?
 迷ってもう一度外へ出てみると、女湯はさらにその奥だった。
 危ない危ない。あやうくのぞいてしまうところだった。

 明礬泉の女湯は無人だった。
 浴槽は円を1/4に切った形をしていて、タイル張り。
 狭く年季も入っているが、なかなかいい感じのお風呂だ。
 湯口からは透明なお湯がそそがれている。
 窓からは旅館街が見下ろせる。ここはまだ高い位置だが、硫黄泉の浴室はあの一番下まで降りるのだろう。

 戻って今度は硫黄泉の浴室へ行ってみることにする。
 何やら簀の子を敷いた四角い細長い通路が続いている。
 白っぽい塗料を塗ってある壁は、あちらこちら剥がれて剥き出しのコンクリがのぞいており、殺伐とした雰囲気だ。
 この奥にさらに長い長い階段が続いている。
 ここは先ほどまでの白い通路とはうってかわって壁も天井も階段も手すりも全て木組みだ。

 階段を一番下まで下りると、右手に女湯、左手に男湯がある。
 女湯の先は、部屋と言うより何か休憩室のようなものでもあるのか、スリッパが何組か散乱していた。
 女湯の暖簾を潜ると、横に細長い小さな脱衣所。
 先客が一名、服を着ているところだった。
 何故か浴室への入り口が二つある。広い浴室でもないのに。

 がらがらと戸を引くと、何とも絵になるお風呂が待っていた。
 浴室は天井も浴槽も全て飴色に染まった木でできていて、二つの隣り合った四角い浴槽には青白い濁り湯が静かにそそがれている。
 湯口も木でできていて、そこだけちょっと周りから浮いたオレンジ色の金槌が置いてある。これは湯量調節用だ。
 浴槽の縁も洗い場の床も、硫黄の粉で白っぽくなっていて、隅に黄色いケロリン桶が備え付けてあった。
 さっきの明礬泉もいいけど、この硫黄泉のお風呂に入るのは楽しみだな。
 窓がほんの少しだけ開いていたので外をのぞいてみた。
 目線の高さに道路の白線が見えた。
 那須街道だ。
 いったいこのお風呂の位置はどうなっているんだろう。



 部屋に戻るとカナがこっちこっちと小部屋に呼ぶ。
 子供たちの部屋でレナが何かを占ってくれると言う。
 カナが客引きの役らしい。
 小部屋の中央には座布団が置かれ、その上に水晶玉の代わりに何故か温泉饅頭がひとつ乗っていた。
 カナがそこに座るように言うので座布団に座ろうとすると、そこは駄目だと言われる。占いに使う玉(だから温泉饅頭なのだが)を乗せる台なんだそうだ。
 「何を占ってほしいですか?」
 「カナとレナがどうしたら喧嘩しなくなるのかを占ってほしいです」
 カナはもう部屋の外に出ていて、レナだけが残っている。
 レナは神妙な顔で立ち上がると、やおら踊りだした。
 「ぴたぴたぴたりん、あたりんちゅ」
 とっとこハム太郎の似非占い師ミステリーちゃんの真似だ。
 「どうですか?」
 ひとしきり踊り終えた後でレナは言った。
 「その占いは、占えません」
 おいおい。

 そうしている間に、パパは既に一風呂浴びてきた。
 特に階段下の硫黄泉がパパ好みだと思うと教えたので、とりあえず硫黄泉に入ってきたようだ。
 「お風呂入ってきていいよ」と私にも言ってくれる。
 「あっ、外でもいいよ」
 これは、外湯なり、余所の宿の風呂なりに行ってもいいよという意味だ。
 「外湯と言っても、この辺りは自由に入れるのは鹿の湯ぐらいなのよ」
 「どういうスケジュールを考えてるの?」
 ・・・歩いて回れる範囲だと、鹿の湯と老松温泉喜楽旅館の二つを考えている。
 「今日これから喜楽旅館へ行って、明日の朝一番で鹿の湯に行きたい」
 那須湯本の共同浴場、鹿の湯はとにかくべらぼうに混んでいると聞いている。
 教えてくれる人、教えてくれる人、みんな例外なく凄く混んでいてお湯はなまるし写真は撮れないと口を揃えて言うのだ。
 でも那須湯本と言えば鹿の湯と言うぐらい、絶品のお湯で雰囲気も素晴らしいらしい。
 どうしても入りたい。
 だから朝一番を狙おうと思っていた。
 30分ぐらい前に並んでいればきっと一番に入れるだろう。
 子供たちを連れていかなけりゃ迅速に行動できるし。
 「そこ、何時からやってるの?」
 「朝8時から」
 「じゃ、無理だよ」
 えっ、何で? 雲海閣から徒歩10分ぐらい。佐野の稲刈り受付は10時半。さっと帰ってくれば十分間に合うんじゃない?
 「ETCの通勤割引を使うんだから9時までには東北道に乗らなきゃ。8時半を過ぎると宿をチェックアウトした客で那須街道が混むかもしれないし、8時過ぎにはここを引き払わないと」
 ・・・。
 「今から鹿の湯、行ってくれば?」
 だってこんな時間帯じゃもう絶対混んでるよ。
 「だから?」
 うー。
 「・・・じゃあこうしよう。明日の朝は8時にチェックアウトして車で鹿の湯に行く。それでさっと入ってから佐野へ向かえばいいだろう?」
 うん・・・まあね・・・。
 でも子供たちに支度をさせたり、みんなで車で行ったりしたら、絶対に30分前についてオープンまで並んで待っているなんてできっこないよなぁ。
 これは当日になってみるまでもなく、きっと思っていたようには入れないに違いない。



 というわけで、とりあえず喜楽旅館へ向かうことにした。
 雲海閣を出るときに、受付をしてくれた従業員のおばさんが街道まで出る道を教えてくれて、野菜でも買い出しに行くの?と聞いてきた。
 「いえ、ちょっと散歩しに」
 雨はやんでいたが、またいつ降るともしれないので念のため傘を持った。
 喜楽旅館は何度か那須街道を行き来するうちに看板を見つけていた。
 雲海閣から行くと、湯本温泉の外れ、那須街道沿いの郵便局前を過ぎて川を渡った所を細い道に入るらしい。

 車で通っているときには距離が有りそうに見えたが、実際は10分ぐらいか。
 通りがかった那須ショッピングセンターは既に行列もはけて静かになっていた。
 郵便局を過ぎて、橋を渡る・・・ああ、あったあった、老松温泉喜楽旅館の看板だ。
 と、いきなり、角の家の門から、突然三匹の犬が吠えながら飛び出してきた。
 中型犬サイズ。
 飛びかかられたら無傷ではすまない大きさ。
 当然繋いであるものと思った。
 このサイズの犬が放し飼いになっているなんて想像だにしなかった。
 犬たちは明らかに敵意を剥き出しにして目の前まで迫ってきた。
 「きゃー」
 思わず反射的に大きな悲鳴を上げた。
 見ると犬たちが出てきた門の向こうに、開け放たれた家のドアが見える。
 当然家人が後を追って飛び出してくるものと思った。

 ・・・誰も出てこない。

 次の瞬間、猛烈に腹が立った。
 犬をけしかけられたと思ったのだ。

 何を考えてるんだろう。
 訴えてやろうかしら。

 かなり離れても、まだ犬たちは歯をむき出してこちらをにらみつけていた。
 もう本当に腹立たしい。
 なんで公道を歩いているだけで脅されなきゃいけないの?

 それから何だか惨めな気持ちになってきた。
 犬に追われるなんて泥棒扱いされたみたい。
 川沿いの細い道は、例の喜楽旅館に続いているだけなのかと思っていたが、しばらく民家が続いていた。民宿も一軒ある。
 右手にある民家からも犬が何匹か吠え立てた。
 こちらは囲いの中にいるから出てはこないが、やはり敵愾心を燃やしているようだ。
 今まで犬が嫌いだなんて思ったことがなかったが、この道を歩いていたら心底嫌になった。
 子供たちを一緒に連れてこないで良かった。
 この先に旅館があるのだから、この道は犬たちにとって見知らぬ怪しい人がひっきりなしに通るはずだ。
 車で来る人はいいだろうけど、歩いてくる人はみんな嫌な気持ちになるに違いない。



 舗装路は途中で途切れていた。
 看板がなかったら、喜楽旅館はもう無くなったのかと思うところだ。
 藪の中をダートの道が続いている。
 少し歩くとこれまた思わずぎゃーと叫びたくなるような廃屋があらわれた。
 ススキに埋もれて上からは木がのしかかるように枝を伸ばしている平屋建ての建物には、薄れかけた文字で「老松温泉喜楽旅館」と書かれている。
 コンクリとプレハブでできた素っ気ない建物だ。
 どう見てももう使われていない。
 というか、喜楽旅館は夜8時まで日帰り入浴を受け付けていると言うが、間違っても日が暮れてからこんなところを歩きたくない。
 道の反対側にはこれまた葡萄棚のような崩れかけた妙な骨組みが残っていて、その下に鼻の欠けた髭面の張りぼての顔が落ちていた。
 意味不明でやたらと不気味だ。

 これでも晴れ渡った午後なら笑っていたかもしれない。
 ときおり小雨の降る何とも陰鬱な空模様の日にとぼとぼと一人で歩いていると、昼間でもこう、背筋が寒くなる。
 本当にこの先に温泉旅館なんてあるのかなぁ。

 ようやく終点に着いた。
 道を挟んで左右に朽ちかけた建物が建っている。
 確かにぼろいが、それでも手前の廃屋を見た後だとまともな建物に見える。
 未舗装の道はまだ少し続いていて、その向こうに鉄筋の五階建てらしい四角い建物が建っているのだが、壁は剥げ、ガラス越しに見える障子はびりびりに破れ、これまた鬼気迫る様子だった。
 確か地図では川沿いに喜楽旅館しか書かれていなかった。
 あれが喜楽旅館の持ち物でないとすれば、廃業した旅館か何かだろうか。
 どちらにせよ、気味が悪い。

 受付は右手の建物だった。
 炬燵でテレビを見ていたおやじさんが料金を受け取った。
 「初めてなの? 向かいの建物の階段を下りて廊下をずっと行ったところにお風呂があるから。ぬるめのお風呂にゆっくり入って行ってよ」

 言われた入り口を入り靴を脱ぐと、まともな木の階段が待っていた。
 今までの行程が行程だったので、中もとんでもない状況なのではないかと思っていたのだ。
 廊下も古いところと作り替えた新しいところとある。
 暖簾は普通だったが、脱衣所は狭くお世辞にも綺麗とは言えなかった。
 脱衣籠が4つ5つ埋まっていた。
 結構人気があるらしい。
 何でも鹿の湯とは違うアルカリ性の硫黄泉で、胃腸病に効き目があり、特に糖尿病を煩っている人たちには大変な評判だという。
 頻繁に通う人も多いのか、回数券も売っていた。
 「失礼しまーす」
 タオルを手に浴室に足を踏み入れると、先ほどの雲海閣の硫黄泉より少し広い浴室は湯気が充満してうすぼんやりと煙っていて、先に入っていた人たちが「こんにちは」と声をかけてくれた。
 雲海閣が入り口を入って横に二つ浴槽が並んでいるのに対し、喜楽旅館は縦に二つ並んでいる。
 こちらも四角い木製の浴槽だ。
 青白い濁り湯がたたえられていて、何故かそれぞれに二つずつバルブのついたパイプが伸びている。

 浴室中に漂う臭いは、レモンに似た酸っぱいような臭い。さらに熟しすぎて傷んだ果実のような臭いに腐ったゆで卵のような臭いも混じっている。
 窓側がぬるく、入り口側が熱めだった。
 先にぬるい方に入ってみると、温度はそんなに高くないのにすぐに唇の辺りがじんじんと痺れてきた。中から血行がよくなっているような感じだ。
 だいたい木の浴槽に青白い硫黄臭のお湯が入っていたら、それはもう熱い湯と相場が決まっている。これでぬるい湯というのがまず意表をつく。
 先に入っていた一人が、バルブのひとつを回して湯を出し、それを備え付けのコップで受けて静かに飲んでいた。
 真似してコップを手にして隣の浴槽のバルブを捻る。
 シューッと圧力のかかった音がして、コップに湯が少し入った。
 それを飲もうとして口を付けて思わずむせる。
 コップの口に揮発した刺激性のガスが登ってきたらしく、目尻に涙が浮かんでしまった。

 先に入っていたお客さんたちがちらほらと上がっていき、気が付くと自分の他は、常連らしいご婦人一人となっていた。
 「こっちのバルブはボイラーで湧かしたお湯で、もうひとつのバルブは温度を下げるための水が出るの。でも水の方も湧かしていない源泉だから、いくら入れても薄まることはないらしいのよ」と教えてくれる。
 両方の浴槽に両方のバルブがついているから全部で四つなのだ。
 でもぬるい方の浴槽の水のバルブはいくら捻っても何も出てこなかった。
 「この温泉は飲んでもよく効くの。でも凄い味なのよね」
 ああなるほど。飲むときは加熱していない方のバルブを捻って飲んでみれば良かったのか。
 教えてもらった非加熱源泉をコップに受けて飲んでみた。
 最初の一瞬はフルーツのさわやかさを感じる口当たりなのに、すぐに渋い老いたような味に変わる。そしてそれがいつまでも舌に残る。
 臭いもそうなのだが、ここのお湯は老松と名につくからと言うわけでもないのだろうが、妙に老いを感じさせる。
 肌触りはきしつくが、ぬるつく感じもある。濁り湯でも粉っぽさみたいなものは無い。
 一言で言うと・・・そう、得体の知れない名湯・・・なんてものがあるとしたら、ここのことだろう。

 帰りにまたあの角で威嚇するように犬たちが出てきた。
 もしかして午前中、那須どうぶつ王国でウサギを抱っこしたりしたのが気にくわないんだろうか。
 いやいやそれにしたって綱もつけずに犬たちを道に出しておくこと自体問題だと思う。
 あの家の主は、泥棒に入られた経験があるのか、さもなければ近所の人たちといがみ合っているに違いないとそう思うことにした。



 宿に戻ると、子供たちはまだ小部屋に籠もってごそごそやっていた。
 部屋の入り口にはバービーたちが三体ほど並び、めいめい手に「うらないハウス」などと書かれた紙を持っている。
 パパは明日の天気を占ってもらっていたが、やはりうやむやのうちにごまかされてしまったようだ。
 「喜楽旅館は思いっきりB級の臭いが漂っていた」
 「そんなところへ行きたがるやつの気が知れない」
 私が喜楽旅館に行っている間に、パパは雲海閣のもう一つのお風呂、明礬泉に子供たちと入ってきたという。
 「今度はここのお風呂も入ってきたら?」
 じゃあお言葉に甘えて・・・
 最初はやっぱり階段下の硫黄泉だろう。

 ほくほくとタオルを手に階段を下りる。
 硫黄泉の女湯には今は二人ほど先客が入っているようだ。
 「失礼します・・・」
 並んでいる二つの浴槽のうち、右が適温、左側が熱くなっていた。
 青白い濁り。
 この宿に一歩足を踏み入れたとたん、何処からともなく漂ってくる硫黄の臭いに、ああ温泉宿だぁという気分が高まるが、お風呂に入ってみると、硫黄の臭いよりむしろアルミニウムのような金属臭が強く感じられる。そして酸っぱいような臭いも。
 鳴子の滝の湯に少し似ているかな。
 ぬるい方で体を慣らして、熱い方に移ってみた。
 足先からじんじんと温まる。
 高い木の天井に湯気が上がっていく。
 味には思ったほどの酸味はなく、むしろ粉っぽい舌触りが印象に残る。

 さきほど喜楽旅館でゆっくり入ってきたところだから、そんなに長湯は出来なかったが、私より先に入っていた二人のご婦人は、私が出てもまだ木の床に座ったまま動こうとはしなかった。
 湯上がりの気分はさっぱりしゃっきり。
 高揚していたので帰りの長い登り段も別に苦にはならなかった。



 部屋に戻ると、パパが「何だか晴れてきたようだ」と言った。
 窓の外を見ると、うっすらと空が茜色に染まっている。
 なんだか悔しいなぁ。
 せっかく紅葉を見に来たのに昼間は雨だなんて。
 今朝の大丸のあたり、もし真っ青な空が背景だったらどんなに凄い景色だっただろう。
 「明日に掛けて晴れてくるのかな・・・おかしいな、天気予報では北東北は明日の朝まで雨が降るようなことを言っていたけど」
 そう、この雲間の晴れはほんのひとときのことで、この後とんでもない荒天が待っているとはこのときは思いもしなかった。

 夕食はさっき那須ショッピングセンターの寿々木商店で買ったサイコロステーキ、ハム、ローストビーフ、それからトマト。レトルトのご飯はレンジで温めた。
 「旨いっ」とパパ。
 「お、おいっしーい」
 すごいよ、このサイコロステーキ。とんでもなく美味しい。こりゃ並ぶわけだ。
 半分を塩胡椒で。残る半分をたれにつけて焼いた。
 この肉、本当に柔らかい。とろけるようだ。
 パパが「こういう肉をキャンプ場で焼くと良いんだよな」と言った。
 どうも前に奈川村の高ソメキャンプ場に行ったときに、Tetsuさんと二人でこっそり焼いて食べた飛騨牛を思い出しているようだ。そのとき私や他のメンバーは、渋沢温泉ウッディもっくに行っちゃって留守だった。
 確かにこんなのを食べてしまうと外国産の安くて固い肉は食べられなくなっちゃいそう。
 もう、お湯はいいし食べ物は美味しいし、那須、最高。

 食後にまたお風呂に行っていいと言われたので、今度は明礬泉の方に行ってみることにした。
 男湯の方も人けが無かったのでそっとのぞいてみると、女湯の倍以上の広さがあるようだった。
 女湯の方は狭い。
 でも一人で入るには十分すぎるほどのサイズだ。
 無色透明に見えたが、入ってみると粉状の湯の花がうっすらと舞っていた。
 臭いは浴室に入った瞬間は汚水のような臭いを感じたが、やはり硫黄の臭い。
 適温。
 階下の硫黄泉ほどのインパクトはないが、これもとても良い湯だ。
 湯口の下に行くと、底に沢山湯の花が沈んでいた。
 思わず嬉しくてすくってはお湯の中で舞わせてみる。
 パンを焼くために粉をふるった後のように一面真っ白になった。

 湯上がりは何故かどっかりと疲れて動けなくなる。
 肌もべたべたする感じ。
 爽快感を感じる下のお風呂とは対照的だ。
 登らなくてはいけない階段はこっちの方が少ないのに、立ち上がるのに気合いがいるのはこちらのお風呂の方だった。



 カナとレナは夢中で昼間の絵を描いていた。
 ウサギと散歩しているところだ。
 ウサギをレンタルしたのがよほど嬉しかったらしい。
 思い出したように、「ウサギさん可愛かったねぇ」と何度も言っている。
 天気が芳しくなかったが、那須どうぶつ王国まで足を延ばして良かった。

 夕食に使わせてもらった食器を洗いに厨房へ行くと、雲海閣の女将さんがいた。
 年輩の品の良い女将さんで、私たちの受付などしてくれた従業員の女性と今夜の泊まり客の最終確認をしているらしい。
 だれだれさんは夕食を食べてから来るからもう少しかかるらしいなどと話をしている。
 厨房の片隅に置かれた黒板に、部屋の名前と泊まり客の名前が書かれている。
 今夜の客は9組。
 「今は全体の半分ぐらい−9部屋しか使っていないのよ」と、私たちに女将さん。
 それじゃあ今夜は満室だ。
 一週間前の急な電話だったけど、予約できて良かった。
 ここは自炊もできるが、今夜の泊まり客はみんな外食をしたものか、厨房には他に客の出入りしている気配は無かった。

 子供たちの就寝時間はいつもは9時だが、今日は8時過ぎに寝かせることにした。
 カナなど大人と一緒に起きたのだから、4時半過ぎからずっと目を覚ましていることになる。
 眠る前に読む本がある。
 今のお気に入りは、ナルニア国物語の「ライオンと魔女」。
 私はこれを今のカナと同じ小学二年生で読破していたが、カナは自分で読むのがあまり得意でなく、いくら言っても自分から本を読もうとしないので、仕方なく読んでやることにしたものだ。
 面白いと思えばいずれ自分から読み出すようになるに違いない。
 ナルニアは来春ディズニーが映画化するというので、お気に入りの本だけに映像で見てしまう前に文字で教えてやりたいと考えていた。
 いつもは一晩で1章分を読むのだが、この日ばかりはレナが眠い眠いと言って章の半分ほどしか進められなかった。
 「ビーバーさんのおうちの続きはまた明日。おやすみなさい」
 狭い小部屋は子供二人の布団を敷いたらちょうどいっぱいだった。



 大人はもう少し夜更かしすることにした。
 子供たちはドアのついた小部屋で寝ているから、こちらは電気を煌々とつけてテレビを見ていても大丈夫だ。
 パパがフジテレビのプレミアム・ステージにチャンネルを回した。今日の映画は「踊る大走査線ザ・ムービー レインボーブリッジを封鎖せよ」だ。
 「これ、何時に終わるの?」
 「判らない」
 ・・・。
 大人も今朝は4時半起きだって言うのに、大丈夫かな。
 明日本当に稲刈りする体力残ってるだろうか。

 結局最後まで映画は見てしまい、それからお風呂に行くことにした。
 もう12時だ。
 「お風呂に行くから付き合って」
 「いやだよ、行きたいなら一人で行ってくれば?」
 あの昼でもちょっと怖そうな階段を一人で下りて真夜中の風呂に行くのかい!?
 「絶対嫌だっ」
 「わがままだなぁ」
 だって怖いものは怖い。それにこんなに冷えてるんだから、寝る前には温泉に入りたい。
 しぶしぶパパも立ち上がった。
 二人で静まり返った廊下を歩きながら、低い声で話をする。
 「夜中のお風呂は誰もいないかなぁ」
 「・・・いや、さっき若い夫婦を見かけたから、ちょうど向こうも踊る大走査線を見ていて今頃お風呂にいるんじゃないの?」
 「まっさかぁ」
 本当だった。
 浴室にはちょうどこれから入ろうとする女性が一人いた。
 どうもここのお風呂に入るのは初めてらしく、これ、二つあるけど温度が違うんですか?と聞いてくる。
 「昼間は左の方が熱かったですよ」
 「あっ、本当だ」
 「今まで映画見ていたらこんなに遅くなっちゃって」
 「もしかして踊る大走査線?」
 ビンゴ!
 まったくパパの言ったとおりだったので可笑しくなってしまった。

 二人で静かに入っていると、いきなり正面の窓ガラスが眩しく光った。それから何か車の通るような音がする。
 「窓の外、どこに通じているんですか?」とその女性。
 「那須街道に面しているみたいですよ。今の光、何でしょう、まさか雷?」
 「車じゃないかしら・・・」
 また光った。続いてやはり車の通るような音がする。
 磨りガラスの窓を少し開けてみた。
 暗いのでよく見えないが、雨は降っていないようだ。光は車のヘッドライトにも思えるが、こんな真夜中にそんなに車が通るだろうか・・・。
 「やっぱり車なのかなぁ」
 と、そのとき
 三度目の光が薄暗い浴室を一瞬明るく照らした後、がらがらがらっという耳を劈くような轟音が鳴り響いた。
 吃驚したぁ。
 か、かみなりだ。
 やっぱりあれ、雷だったんだ。
 そして一呼吸する間に今度は凄まじい勢いで雨が降ってきた。

 パパが待っているといけないと思い、早々に上がったが、脱衣所から出る前に、ゆっくり入っていると言っていた彼女も上がってきた。
 「何だか怖くなっちゃって」
 だよねぇ。
 雷に大雨。屋内とはいえ、真夜中に一人でお風呂に入っているのはきつい。
 脱衣所から出ると、もう階段の下でパパが待っていた。
 雷はひっきりなしに大音響を轟かせているし、雨音も尋常じゃない。
 一人でお風呂に行かないで良かった。

 長い長い階段を登り終えて白い通路を抜けて、部屋の前まで来たところで廊下にある窓から外を眺めてみた。
 窓の桟の所に大きな丸い氷の粒が沢山落ちていた。
 雨じゃなくて雹が降っているんだ。
 どうりでものすごい音がすると思った。
 パパは最初、気に入った宿が取れなかったらキャンプ場でもいいか、なんて言っていたけど、旅館にして本当に良かった。
 もしテントなんて張っていたら穴だらけになっていたかもしれない。

二日目「稲刈り日和」へ続く・・・
 

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