2.空いてる長野、混んでる群馬
夜明け前に激しい雨が降った。
窓側で寝ていたyuko_nekoさんはそれに気づいた。
そしてキャンプ場で寝ているはずのがっちゃんとパパの心配をしてくれたらしい。
私は子どもたちを挟んで反対側で寝ていて気が付かなかった。
夜が明けると雨は止んだが、窓から見える木々の葉も地面もぐっしょりとぬれそぼっていた。
二日目 2007年9月23日(日) |
昨日の夜は早く寝た。
夕食をのんびり食べ終えて、子どもたちとお風呂に入って、それからすぐに寝てしまったはず。たぶん10時過ぎにはもう布団に入っていた。
何しろ私は昨日の出発が早かったし、yuko_nekoさんに至っては一昨日の仕事を終えて家に帰ってきたのが午前様という有様だったから。
でも子どもたちは寝なかった。
ちび姫ちゃんも、普段は9時にはベッドにはいるはずのカナとレナも、10時を過ぎても10時半を過ぎても寝ないで遊んでいた。
普段なら早く寝なさいと無理矢理寝かしつけるところだが、旅先ぐらいいいかと規律をゆるめた。
一応部屋の電気は豆電球にして、母二人はもうさっさと横になってしまった。
夜が早かったので目を覚ますのも早かった。
私とyuko_nekoさんは7時前には露天風呂にいた。
9月の三連休だというのに
紅葉館の客入りは半分程度で、夕方から夜に掛けてはほとんどお風呂で人に会わなかったのに、朝風呂の時はずいぶん多くの人とすれ違った。
それでも露天風呂は貸切状態だった。
他のお客さんはすぐに上がってしまい、私たち二人が残された。
昨日の夜は暗くて気が付かなかったが、露天風呂のお湯は綺麗なミルキーグリーンだった。白と緑の絵の具を溶いたような色。如何にも山の温泉らしい。
五色温泉と比べると弱いとか何とか昨日は思ったけれど、やっぱり七味は七味、とても良い温泉だ。
結局、朝風呂ものんびりと入ってしまった。
内風呂の方に戻ると脱衣所の方に人影がある。
ドアを開けてみると、カナとちび姫ちゃんがいた。
「どうしたの? 目が覚めたの? 一緒に朝風呂入る?」
「お風呂入んない。あんまり戻ってこないから見に来たの」
「レナは?」
「まだ寝てるよ」
昨日遅かった割にカナもちび姫ちゃんも早起きだった。レナがねぼすけなのはいつものこと。
朝食は8時。
夕食と違って今度は大広間だ。
この朝食がまた結構凝っている。安い旅館だとご飯・味噌汁の他、焼き魚なんかと海苔だの卵だの納豆だので終わってしまうこともあるが、鍋物(湯豆腐)とか、フルーツも付いている。
子供用の食事にはソーセージやハムがあった。
本当に予算からすると大満足だ。
昨日の昼間は真夏かと思われるほど暑かったが、夕方には山の中だけあって少し涼しくなった。それでも9月後半であることを考えると、窓を開けたまま寝ようなんて思う気温なのは異常だが。
今朝は流石にかなり涼しかった。いったん薄着で大広間に降りた私たちだが、子どもたちが寒い寒いと言うので仕方なく部屋まで上着を取りに戻った。
部屋ではちょうど年輩の男性が布団をあげてくれているところだった。
すいませんとちょっと声を掛けて入らせてもらった。
のんびり語らいながら食べている私たちと違って、子どもたちは遊びたいので食べる間ももどかしい。
自分たちの分を食べ終わると、三人連れだってとっとと部屋に戻ってしまった。
ところがしばらくして廊下をぱたぱたと行き来する足音が聞こえた。
子どもたちの声も聞こえる。
何しに戻ってきたんだろうと思うが、子どもたちは私たちのいる部屋の襖を開けようとはしない。廊下を行ったり来たりしている気配があるだけ。
変だと思い、襖を開けてみると、やっぱり三人が並んで歩いていた。
「どうしたの?」
「DSが無いの」
えー、またですか?
こないだも
沖縄旅行の時に空港で無くしかけたばかりじゃない。
カナとレナとちび姫ちゃんと三人が三人とも自分のニンテンドーDS(ポータブルゲーム機)を持っている。
朝食前もそれで遊んでいたので、大広間に降りる前に部屋の机の上に置かせた。
食事中に宿の人が布団をあげに来てくれるはずなので、踏みつけたりしないように置き場所を机に決めた。
ところが三人が食事を終えて戻ると、置いたはずの机の上には、カナの分のピンクのDSしか残っていなかった、と、こういうわけらしい。
レナの紺のDSとちび姫ちゃんの白のDSは見あたらず、仕方なく廊下をうろうろしていたもよう。
「お布団をあげるときにたぶんどこかに置いたんだよ。お布団をあげてくれた人に聞いてみたらいい」
布団をあげてくれたのは、私がさっき見かけたおじいさんのはずだ。
小学5年生のちび姫ちゃんを筆頭に、みんなもう自分たちでそのくらいできるだろうと、私たちはまた食事に戻った。
ところがしばらくして子どもたちがやってきて、やっぱり見つからないと言う。
仕方なく私たちが女将さんに相談してみると、女将さんはおじいさんにもう一度確認してくれて、もうちょっとよく探してみたらということになった。
結局行方不明になった二台のDSはちゃんと出てきた。
話がいろいろ行き違いになってややこしいことになっていただけだった。
おじいさんは布団をあげるときに、壊さないようにとそばにあったオレンジ色の袋(紅葉館のアメニティ袋)にDSを仕舞ってくれた。
そして子どもたちには「黄色い袋の中に入れた」と教えてくれた。
ところが子どもたちは黄色い袋と言えば黄色い袋なので、オレンジ色の袋は念頭になかった。
私たちと言えば、子どもたちから聞いた話が断片的すぎて、そもそもおじいさんが袋に仕舞ったということも後から聞いた始末。
何度もいろいろな所に確認して、ようやくyuko_nekoさんがオレンジの袋から捜し物を見つけた。
朝からドタバタとしてしまった。
また雨が降ってきた。
三連休は晴れだとばかり思っていたんだけどな。
yuKo_nekoさんは朝からがっちゃんと携帯で連絡を取り合っている。
心配していたが、幸い山田牧場の方は雨にはならなかったようだ。ほんのちょっとした距離なのに、山の中腹と谷間では天気が違うようだ。
残念ながら私のau携帯は七味温泉が圏外だった。まったくアンテナが立たないどころか赤で「圏外」の文字。ここではドコモが強い。
山田牧場の方では三本もアンテナが立っていたのに。
後でパパに「ずるいよなー電源切ってるなんて」と言われたが、本当に圏外だったんだからしょうがない。
がっちゃんとパパは朝風呂は山田温泉の共同浴場 大湯だったらしい。
なんでも煙草を切らして朝から買いに行って、ついでにお風呂も入ってきたんだって。
透明ながら熱いがつんと来るお湯で、パパは山田温泉がいたく気に入ったようだった。
「湯口も木でできていて格好いいんだよ」と、後で教えてもらった。
キャンプ場組が痺れを切らしているといけないので、9時のチェックアウトを目指した。
うちとyuko_nekoさんちの費用をそれぞれ計算するために、先に請求書の内訳を出してもらった。
飛び込みでお願いした追加の子供料金は、食事抜きの2,000円。有り難くて涙が出そう。
このときに宿の源泉使用状況についても親切な女将さんにうかがってみた。
七味温泉の七味というのは、七つの源泉をミックスさせたことにより命名されたということは知っていたが、その七本全ての湯元は昨日閉業しているのを見た牧泉館だと言う。
紅葉館は、独自源泉も無いことも無いようだが、どうやらほとんどを牧泉館を湯元とする源泉に頼っているようだ。
「七味温泉と言うけれど、やっぱり七本も源泉を管理するのはとても大変だから、今はそのうち4、5本しか使われていないのよ。うちでは4本の源泉を使っているけど、どのお風呂もそれぞれ混ぜ方を変えているの。季節でも変えているわ。寒いときは熱い源泉を増やしたりね」
どうりで昨日入ったお風呂はそれぞれにお湯の印象が異なったわけだ。
「うちは全て掛け流しよ。七味温泉の中でもぬるい源泉1本しか持っていなくて加熱循環しているところもあるけれど、うちはその必要は無いから」
女将さんは宿のお湯にとても自信を持っているようだった。
その後、チェックアウトのために子どもたちを連れて階下に降りた。
精算の時に急に予約人数より子供が一人増えてしまった事情を説明した。
「まあそれじゃ、旦那さん方はキャンプ場にお泊まりなの? 良かったらここのお風呂に入っていって下さいよ。無料で構いませんから」と女将さん。
後でそのことをパパたちに伝えたが、行き先が逆方向だったこともあり、結局パパたちが紅葉館のお風呂に入ることは無かった。
でもこんな風に勧めてくれることはとても嬉しい。印象が良くなる。
精算が終わって振り返ると自分の荷物がない。焦ったら、若くて美人の仲居さんがもう外に出て車の前で持っていてくれた。
「ここの娘さんかな、美人だよね」とyuko_nekoさんがささやいた。
女将さんも出てきて見送りをしてくれた。
ちょうど雲が切れて山が顔を出す。
紅葉館の玄関前は覆い被さるように楓の枝が張りだしていて、あともう少し季節が進めばきっと錦に飾られるのだろう。
「いい宿だったね」
「大正解だったね」
すっかり満足して私たちは七味温泉の橋を渡った。
果たしてキャンプ場組の男性陣はどんな顔で待っているだろうか。
七味温泉を出て山田牧場へ向かう途中も時々霧雨がぱらついた。
ちょっと心配だな。キャンプで雨は大敵だから。
まあテント泊ではなく、トレーラーだし、がっちゃんの新しいトレーラーは前のと違ってトイレ付きだ。増してあの二人は生粋のアウトドアマン・・・。
がっちゃんなんてトレーラーの後ろに「野外野郎」って書いたステッカーを貼っているんだよ。遠くから見ているときは千社札でも貼っているのかなと思ったけど、近づいてよくよく見たら「野外野郎」だった。がっちゃんにはまりすぎ。
でもパパ曰く、本物の野外野郎ならトレーラーなんて軟弱なもので寝たりせず、テントも張らず、寝袋一個で外で寝なきゃとのこと。そこまでやってこそ本物の野外野郎だって。
私たちを乗せた車が山田牧場に到着する頃には雨はほとんど霧のようになって、降っているともいないとも判らないような天気になっていた。
でも下がぬれていると、例の牛の落とし物が恐ろしい状態になっているはず。
私とyuko_nekoさんはキャンプ場の駐車場に車を入れると、注意しながら車から降りた。
牛の姿は無い。朝は別の場所にいるのか、天気が悪いから出てこないのか。
念のためズボンのすそをまくり上げて、私たちはキャンプ場の中に入った。
・・おや?
テーブルの前に誰かいる。
「こんにちはー」
明るく元気そうな声の可愛いお姉さんが立っていた。
「こちら、学校の先生なんだって。昨日の夕方、一人でバイクで来たんだよ」
パパたちに聞くと、もうすっかり暗くなりかけた頃、草津・万座方面から峠を越えてバイクで到着、今から買い出しに行くというので近くには何も店がないからと止めて、一緒に夕食を食べたとのこと。
yuko_nekoさんが「どうりで。買いすぎたかと思ったジンギスカンを全部食べたって言うから変だと思っていたよ」と笑う。
「いやー、これで私たちも後ろめたい思いをしないで済んで良かった」
yuko_nekoさんはパパとチェンジしたことをずっと申し訳なく思っていたのだ。増して予想より天気も悪い夜だったし。
「こーんな可愛い女性が一緒にご飯を食べてくれたんじゃねー、そりゃ男性陣、大ラッキーだわ」
「いえいえこちらこそご馳走になっちゃって」とバイク乗りのお姉さん。
これで八方丸く収まった感じ。
yuko_nekoさんは牛の落とし物だらけのキャンプ場に泊まらなくて済んだし、ちび姫ちゃんとうちの娘たちは一緒に行動して一緒に遊べたし、パパとがっちゃんは独身の可愛いお姉さんと飲んで食べて楽しい時間を過ごしたし、バイク乗りのお姉さんは夜になって町まではるばる買い出しに行かなくてもご飯にありつけたし。ねっ。
「そんなこと言ってないだろ〜」とパパ。
昼間はがらがらだった山田温泉キャンプ場だが、今見渡してみると、ぽつりぽつりとバイク乗りの小さなテントが張ってあったりする。
どうやらここはバイクツーリングなどする人たちに人気があるようだ。
そういう人たちは、オートキャンプのファミリーキャンパーと違って、昼間から火をおこしてバーベキューしたりせず、夕方遅くに到着してこぢんまりとしたテントを張り簡単な食事を食べる。
それはそれでいいけど、はっきり言ってこのキャンプ場は暗くなってから到着するのは危険すぎ。
暗いと見えないよ、自分のテントの下に牛の落とし物がでーんとあっても。
ここでちょっと現在いる信州高山温泉郷と、今日これから向かう万座温泉の位置関係をおさらいしてみよう。
このふたつは直線距離にするととっても近いのだ。高低差を考えず、万座温泉と七味温泉を地図上で測れば、直線距離にして4キロぐらいだろうか。
七味温泉と万座温泉を直接結ぶ、万座山と黒湯山の峠を越える林道は一般車両通行止め。
通常は奥山田温泉から笠ヶ岳の峠を登り、
熊の湯から志賀草津道路に入る。
もちろんうちは最初からそのつもりだった。一応、紅葉館に予約を入れるときに電話でこの道が通れるか聞いてみた。普通車なら大丈夫だという話だった。
しかし、がっちゃんのデリカはトレーラーを引いているのだ。
確か昨日、山田牧場キャンプ場の使用料を徴収に来たさわやかなお兄さんが言っていたじゃないか、「マイクロバスすら通れなくて、普通車二台に分乗して峠を越えたお客さんもいた」って。
先日の台風で一時的に道が通行止めになったという話も聞くし。
もし笠ヶ岳の峠を越えることができなかったら、いったん山を下って、
渋温泉の方からぐるりと回るしかない。それでも相当な九十九折りだろうけど、道幅は広いはずだ。
どうする?
「行けるところまで行ってみれば?」とパパ。
「そうっすね」
い、いいのか?
行けるところまで行って行かれなくなった時点ではもうどうすることもできないんじゃないかと思うけど・・・というか、志賀高原方面で泊まるって言っていたがっちゃんを松川渓谷側に引っぱり出しちゃったのは私か。
まあ、なんとか笠ヶ岳の峠を越える方向で話がまとまったので、群馬県に抜けてしまう前にもう一風呂入っていくことにした。
何しろ群馬県に行ってしまえば万座温泉しかない。
いや、万座温泉があればそれでいいんだけどね。
天気が悪く見晴らしがないので、満山荘というチョイスは無しだ。
昨日、キャンプ場のお兄さんが推薦してくれた
レッドウッドインに入っていくことにした。ここは朝8時から立ち寄り入浴を受け付けている。
山田牧場スキー場前の何軒か旅館やペンションが並ぶ一角にレッドウッドインはある。
スイスアルプスの山小屋風の三角屋根。昨日煙草を譲ってもらったセルバンよりさらに洒落たつくりだ。
今回も子どもたちはお風呂に入らないと言うのでトレーラーで留守番していてもらうことにした。子どもたちがだんだん大きくなってきてずいぶん楽になったものだ。
この辺りは道路にも我が物顔で牛が歩いている。
ますますガスが出てきて、辺りは真っ白だ。
レッドウッドインと言えば、美味しいレストランと巨大丸太をくりぬいたお風呂で知られる。
先代オーナーがアメリカの歴史ある国立公園セコイアナショナルパークで1ヶ月探し回り、ようやく手に入れた世界最大種の樹木であるレッドウッドの丸太を日本に運び、それをそのまま浴槽として使っているという贅沢なお風呂。
直径3.2メートル。
レッドウッドは当時でも伐採は禁止。今は風倒木ですら切り出すことができなくなっているという貴重な材木だそうだ。
また、レッドウッドインの建物自体もそのとき運んだレッドウッドのログからできていると言う。
レッドウッドインの入り口には、レストランのランチメニューと、「縄文時代に芽吹いた樹齢1650年、巨大丸太露天風呂!!」と書かれた木のパネルなどが並べられている。
入るとまずレストランになっていて、アンティークな山小屋風の内装、隅には暖炉もある。
お風呂に至る階段や廊下も、海外のコテージにでも来たかのような洒落たつくりだ。クリスマスにカップルで泊まるのにぴったりという感じ。
脱衣所はちょっと狭かったが、ラッキーにも誰も入っていないようだ。
内湯の浴槽は石でできていて、空豆の粒のような形をしている。お湯は綺麗な青灰色の濁り湯。
でもやっぱりレッドウッドインは丸太の露天風呂でしょうとさっさと外へ出てみた。
内湯から繋がっているドアを開けると、高いところに丸太風呂が据え付けられていた。
石段を登っていくようになっている。ざあざあと丸太風呂から溢れたお湯が石段を伝って勢い良く流れてきている。
yuko_nekoさんが先に入っていた。
私はレッドウッドの丸太というので、もっと赤茶色の生の木のようなものを想像していたが、樹齢1650年、3.2mの直径に成長したその木は、温泉の色で染められたのか色を失い灰色で、しかもあまりに固いので、まるで石かコンクリートででもできているようだった。
さらに実際にひび割れの部分はコンクリートのようなもので修繕してある。
でもそれは面白みを欠くと言うより、天然の木がここまで石のようになってしまうということにむしろ驚きを覚えた。
丸太の露天風呂はぬるかった。
レッドウッドインでは加水していないという表示があったが、外気温で冷まされているのかお湯は相当ぬるかった。
綺麗な濁り湯で、五色や七味と違って粉のような細かい湯の花が沢山舞っている。
ゆで卵の臭いは昨日入った温泉と同じように感じるが、入った印象はとにかく軽い。重々しいところが全くない軽やかなお湯だ。
yuko_nekoさんが箱根のお湯に似ているねと言い出した。
「そうなんだー」
「似ていると思わない?」
「私、箱根にはもう10年以上行ってないんだよ〜」
それも温泉大好きになっていろいろ回るようになってからは一度も行っていない。
後で分析表を見たら奥山田温泉は造成泉だった。だから箱根と似ていたんだと納得するyuko_nekoさん。
ああ、箱根、行きたいな。毎年11月頃には箱根の紅葉を見に行こうと計画だけは立てるんだけど、一度も実行できたためしがない。もちろん今年も無理だ。
丸太風呂の背後は木の柵の向こうに森。
前方はレッドウッドインの建物を見下ろすようになっていて、その向こうにぽつぽつと木の生えた牧草地。冬にはスキー場になるのだろう。長閑な景色。
そうか、この景色を見せるために、丸太風呂は高いところに据え付けられたのか。
ぬるめのお湯にのんびり浸かって、丸太の縁に肘を当てながら牧歌的な山の景色を眺めていると、また流れてきた雲が全てを覆い隠してしまった。
昨日とうってかわってかなり涼しかったこともあり、露天風呂から出ると肌寒いくらいだった。
あのお湯はあまり温まらない。内湯で少しばかり体を温めてから出た。内湯の方は露天風呂より少し温度が高めだ。
お風呂から上がると、レストランの所にがっちゃんがいた。
パパが私たちよりのんびり入っているとは思えない。このメンバーだといつも一番先に上がるから。
「パパは?」
「先輩は車の方に戻っている」
がっちゃんは牛乳を買った。
「この牛乳、旨い!!」
そしてレッドウッドインの人が出してくれたというボトルに入った水を私のコップにもついでくれた。
がっちゃんが牛乳を、私が水を、テーブルについて飲んでいると・・・。
遅れて来たyuko_nekoさんが、どこのカップルが座っているのかと思ったーと言った。
さらに車から戻ってきたパパが、ボトルの水をワインと勘違いしたのか、朝から二人で何を飲んでいるのかと思ったーと言った。
違うって。
笠ヶ岳の峠を越える道はトレーラーを引いたがっちゃんのデリカには難儀だった。
対面通行が難しいような細い道で、しかも連休だから対向車も多い。
ところどころ、相当厳しい場面があった。
何だか正月の
ゆきだるま温泉に行ったシチュエーションを彷彿とさせる。
「・・・がっちゃん、大丈夫かなぁ・・・」思わず口にしてしまったところ、後部座席に乗っていたちび姫ちゃんが「心配ないよ、パパは運転上手いから」ときっぱりと言った。
おお、さすがちび姫ちゃん。
ちなみに三人の子どもたちは旅行中ひとときも離れたがらないため、移動の時は常にどちらかの車に三人揃って乗る。今日は私たちの車の後部座席に三人並んで座っていた。
山道はどこまでが山田牧場の敷地に当たるのか判らないが、道路にも急斜面にも牛がいた。ここで暮らす牛はさぞや足腰が丈夫になるだろうなと思うくらいに。
山田牧場の辺りまで木々の葉は緑一色だったのが、高度を上げるに従い、秋めいた色合いになってくる。紅葉には早いが、どことなく黄色や赤みがかっている。あと少し朝晩の気温が下がれば全山錦に変わるのだろう。
雲は流れが速く、いきなり視界を閉ざしたり、ふいに切れてきて絶景が広がったり。
峠近くではまるで空中を走っているかのような不思議な感覚に見舞われるほど。
ようやく峠に着いた。
笠岳峠の茶屋と看板を下げた店があるが閉まっている。笠ヶ岳の登山道の入り口もあり、ちょうどこの峠を境に高山村から山ノ内町になる。
峠を越えたらもしかしたら晴れているんじゃないかなんて淡い期待を私は持っていた。
でも峠を越えた先はさらに悪天候だった。
雲の中にすっぽりとはまっているようで視界は悪いし雨も少し降っている。
下りに転じた道は最初は細く辛かったが、次第に緩やかになり、熊の湯の手前で志賀草津道路に入ってからは余裕の二車線になってホッとした。
熊の湯、ほたる温泉を過ぎて次は渋峠に向けて高度を上げる。
渋峠は高度2172m。国道としては最も標高が高い地点だそうだ。
この渋峠もすっかり濃霧に包まれている。
広い駐車場にはぎっしりと車が停まり、志賀高原横手山のぞきスカイレーターなるアウトドアエレベーターみたいなものが見えたが、こんな日に登っても何も見えないんじゃないかと思う。
それでも沢山の観光客がスカイレーターに乗っているのが見える。半袖の人あり、コートの人あり、服装もまちまちだ。
なお、パパたちとキャンプ場で過ごしたバイク乗りの先生は、昨日はここでスカイレーターに乗ってきたらしい。そのときはよく晴れていたという話だった。
渋峠の後は山田峠を越えて万座方面へ曲がる。
何だか硫黄温泉の臭いがするなぁと思ったらまもなく万座だ。
草津と並び称されることが多い万座だが、草津と違ってここは本当に山の中。各ホテルも斜面のあちこちに点在しているような感じ。
まだ12時前だったが、お腹を減らしたパパは「かつ丼が食べたいかつ丼が食べたい」と言い続けていた。
「確か万座亭ならお昼が食べられるんじゃ無いかなぁ」
スキーに来たときのうろ覚えな記憶をたぐり寄せて私は言った。
ちょうど目の前にこぢんまりとした駐車スペースと万座亭の建物が見えた。
「ここでいい?」
「ちょっと中に入って先輩ご所望のかつ丼があるか見てくるよ」
がっちゃんが確認しに行ってくれた。
「大丈夫。かつ丼は無かったけど、ヒレカツはあったよ」
「じゃ、ここにしよう」
後から調べたらここは万座亭でも別館で、前にスキーの時に食事をしたのは本館の方で場所も全然違った。
一見、そば屋のような感じの店内。
パパは念願のカツを、私はあまりお腹が空いていなかったのでカツカレーを子どもたちとシェアすることにした。
でもカナもレナも結構お腹が空いていたようで、最初はそんなに食べないと言っていたのに、気が付いたら皿はほとんど空になっていた。しかも最後に残ったカツまでレナがちゃっかり持っていってしまった。仕方なくパパがカツを分けてくれた。
この店は何故かヒレカツは定食になっていないので、ライスは別に注文しなくてはならなかった。なんでだろう?
食べ終わって外に出ると、また霧雨が降っていた。
もう後は旅館に入るだけだからいいか。
私たちは車に乗って今夜の予約を入れてある万座温泉ホテルを目指した。
ところでパパと話をしても、yuko_nekoさんたちと話をしても、信州高山温泉郷は穴場だということで意見は一致した。
昨日から女性陣は五色温泉五色の湯旅館、七味温泉紅葉館、奥山田温泉レッドウッドインと温泉に入り、男性陣は七味温泉の代わりに山田温泉大湯に入っている。
秋の連休だというのにどこもがらがらで、お風呂は独占状態に近かった。
正直なところ平日旅行と違って、どこも混んでいるんだろうと覚悟してきただけに意外だった。
東京から行く場合高速道路の距離が長いが、高速を降りてからは割に近い。
にも関わらずこの空きっぷり。
おまけに温泉はどこも極上で、絵になる贅沢な濁り湯露天風呂が標準装備。
いいんじゃない? 信州高山温泉郷。
これはまた再訪しなくては。
それが県境を越えて群馬に入ると、予測していたことではあるがえらく混んでいた。
山の中の万座温泉ですらこの混雑。
草津辺りはもっと凄い人出だろう。
万座温泉の中でもひときわ奥まったところにある万座温泉ホテルも駐車場には車が溢れ、玄関前も大勢の人が行き来していた。
私たちの車は宿泊者ということで建物入り口に一番近い駐車場の外れに停めることが出来たが、がっちゃんの車はトレーラーがあるので離れたところに停めざるを得なかった。
さて、我が家は万座温泉に来るのは三度目だ。
過去二回は日帰りで、泊まるのは初めてだ。
万座温泉には何軒も宿があるが、2回とも入った温泉はこの
万座温泉ホテルだけだ。
最初の一回目は何も考えず、露天風呂の絶景を求めて
万座温泉ホテルの極楽湯(露天風呂の名称)にやってきた。
よく晴れたゴールデンウィークのことで、もう景色はこれ以上はないと言うくらいの感動ものだった。
二度目はスキーだった。それも自遊人という雑誌に万座温泉ホテルの無料入浴スタンプ帳がついてきたので、タダで入れるならとやってきた。
このときは極楽湯だけでなく、湯治場の雰囲気を残す
日進館という湯小屋にも行き、男女日替わりの鉄湯にも入ることができた。
でも日帰りなのであまり自由時間も無く、館内大浴場の長寿の湯には入ったことがない。
増して万座温泉の他の宿には足を踏み入れたことがない。
今回は長寿の湯はもちろん、できれば他の宿も一軒ぐらい行ってみたい。特に今有効な自遊人パスポートが使える万座プリンスホテルは狙い目だと思っている。
万座温泉ホテルの予約はタビータ(旧トクー)でyuko_nekoさんが取ってくれた。ゆけむり荘2食付きプランで2食付き大人8千円。
連休でこの値段だよ。安ーい。(
現在の万座温泉ホテルの宿泊料金も見てみる?

)
万座温泉ホテルは大規模ホテルで、ホテル本館客室、ホテル別館客室、そして湯治棟であるゆけむり荘の三種類の部屋がある(本年度末、新たに日進館湯房という新館が完成するもよう)。
このうちゆけむり荘は安いだけあって部屋も少し狭くトイレや洗面所も共同になる。冷蔵庫も付いていない。さらには日進館のお風呂には近いものの、長寿の湯やロビー、食事処に移動するには難儀なほど曲がりくねった廊下の先にある。
でも私たちにはそれで十分と思っていた。
そう覚悟していたけれど、何と嬉しいことにチェックインの時に「別館のお部屋がご用意できました」と教えられ、グレードアップした部屋に泊まれることを知った。
やったー、ラッキーだ。
昨夜の紅葉館でも寝具代だけで子供一人追加を受けてもらえたように、今回の旅行では旅館に恵まれている。
しかしチェックイン手続きをしたのが1時前だったので流石に早すぎた。
本来のチェックイン時間は2時から。
受付の人は、1時50分ぐらいになったらお部屋に入れると思いますがもう少々お待ちいただけますかと早口ながら丁重な言葉でそう言った。
万座温泉ホテルのフロントは、大勢の客をあしらうのに馴れているがそれでも一人一人の客に便宜を図ろうとするプロ意識があって私は好きだ。
前回は自遊人の付録で無料入浴させてもらったわけだが、そのときも無料でもきちんとした応対をしてもらえて好印象だった。
1時間近く何もすることが無くて暇だ。
ロビーには他にもチェックインを待つ人や、日帰り入浴後に一休みしている人が沢山いて、みんな所在なげに椅子に座ったり土産物ショップをうろうろしたりしている。
ロビーには熊笹茶の無料サービスもあって、がっちゃんは早速一杯飲んでいた。
1時35分頃、あまりに暇そうな私を見て、yuko_nekoさんがお風呂に行ってきたらと言ってくれた。
あと15分ぐらいか。目の前に長寿の湯の暖簾はあるし、さっと一風呂浴びてくるぐらいの余裕はあるかな。
それではとyuko_nekoさんのお言葉に甘えて、私は彼女に貴重品を預けるとタオルを手にさっさとお風呂に行ってしまった。
ちなみに子どもたちはそのとき隅の方で荷物に寄りかかりながら三人で大人しくDSをしていた。
背中を丸めてゲームに興じている子どもたちを見て、がっちゃんが「1号と3号、背中が出ているぞ」と注意した。
慌ててちび姫ちゃんとレナが背中を隠す。
「2号はセーフ」と言われてカナは照れ笑い。
長寿の湯も混雑していた。
ちょうど日帰りの人がどっと来る時間帯なのかもしれない。長野側ではいまいちぴんと来なかったが、やっぱり世間は三連休なのだ。
入り口の前で靴を脱ぎ、中で男女は左右に分かれるようになっている。
脱衣棚もセンター系日帰り温泉のように沢山あって、子供連れの姿も多い。
浴室は木造で広く、中央に比較的大きな浴槽がある。
左側に洗い場が、右側に小さめの浴槽がいくつか。中に移動してみると脱衣所の隣にも別の浴槽があり、さらに外には半露天風呂も二つほど作られているのが判った。
それぞれの浴槽には名前が付けられている。
中央の大きな浴槽は苦湯、後方は姥湯(源泉100パーセント)、苦湯の右の打たせ湯付きの浴槽が滝湯、その隣の無色透明な湯の浴槽が真湯、さらに外へ出て手前が姥苦湯、奥がささ湯となっている。
このときはまだどれがどれやらまったく判らず、何から入って良いものか悩んだ。後からこれらの源泉は全て共通で採取位置と加工方法が違うだけという話を教えてもらったが、そのことはまた後で詳しく書こうと思う。
とにかく何だか判らないまでも、少し空いていそうに思えたので最初は半露天風呂の方に向かった。
私と一緒に小さな子供を連れた家族連れが露天風呂のドアを潜った。
手前の姥苦湯に数人、奥のささ湯には一人先客がいらした。
姥苦湯から入ってみる。
真っ白に白濁していて少々ぬるめ。
これだけ大勢の人が入っているのだからお湯の鮮度がどうのと話しても仕方ないと思うが、思ったよりずっと景色は良い。
屋根があるので開放感はあまりないが、ちょうど浴槽が細長いのでみんな内湯を背にして座ると、目線の高さに景色が見えるようになっている。
一緒に露天風呂に出てきた家族連れの子供がお風呂に入るのを躊躇していたが、家族が熱くないわよと招き入れたところで私は隣のささ湯に移った。いくら何でも混みすぎだ。
ささ湯には年輩の人が一人入っているだけだった。
こちらはお湯が少ない。浴槽の半分ぐらいしか溜まっていない。さらに姥苦湯よりぬるかった。
振り向くと源泉をそそぎ入れるパイプは一本で、姥苦湯とささ湯の両方に入るようになっている。
このときはまだ、長寿の湯の複数のお風呂に使われている源泉が全て共通とは知らなかったので、姥苦湯とささ湯がどうして同じパイプから出ているのだろうと不思議に思った。
その後、内風呂の姥湯に入ってみた。
ここだけ源泉100パーセントと書いてあるのが気になっていたので。
確かに姥苦湯やささ湯とは感触が違うような気がする。
見た目も濁りが少なく、臭いは強くは無いが肌に染み通るような感じがする。
長寿の湯から上がると、ちょうど1時50分ぐらいだった。
もしかして置いて行かれたかもと思って慌ててロビーに戻ると、やっぱりみんないない。先に部屋に入ってしまったようだ。
部屋番号は覚えていないけど・・・携帯電話があるさ。
「・・・?」
私のau携帯電話のアンテナは三本ともばっちり立っているのに何故かyuko_nekoさんの呼び出し音が聞こえない。おかしいな。
何度かリダイヤルすると、呼び出し音無しでいきなり繋がった。
「遅くなってごめん、もうみんな部屋に入っちゃったんだよね?」
「・・・そう。あのね」
ぷちっと切れてしまった。
再度ダイヤルするがまた繋がらない。
仕方なくパパの携帯に電話した。
「562号室。フロント前のエレベーターで4階」
「了解」
電話を切るとyuko_nekoさんからメールが入っていて、内容は部屋番号だった。
私は七味温泉で通じたドコモだから、まさかここで通じないとは考えもしなかったのだが、どうやら万座温泉ホテル周辺ではauの方が電波が強いようだった。
フロント前のエレベーターはすぐに判ったが、部屋番号の表示板を見ながら廊下を進んで途中で判らなくなってしまった。
あれ?
ちょっと戻ってもう一度確認する。いいんだよね、こっちで。
階段を上って階段の途中で通用口みたいな狭まったところを潜り、また階段を降りる。こっちに客室があるとは思わなかったのが迷った理由だった。
「ここだー」
やっと部屋を見つけた。
私たちの部屋とyuko_nekoさんたちの部屋は隣同士だ。
流石にゆけむり荘ではなく別館のお部屋に案内してもらえただけあって、部屋はそこそこ広くとても綺麗だ。冷蔵庫があるのも有り難い。
yuko_nekoさんとがっちゃんは疲れたので一休みしたいと横になっていた。
子どもたちは早速玩具を広げようとしていたので、大人の休息部屋と子供部屋を分けようと提案して、子供三人は私たちの部屋に連れていった。
私は、というとまだまだ元気が余っていたのでまたまたお風呂に行くことにした。
万座温泉ホテルには沢山お風呂がある。入れるときに入れるだけ入っちゃおう。
そこでまず私が向かったのは日進館だった。
日進館というのは現存する万座温泉の温泉宿の中でも最も古い旅館の名前で、いわゆる万座温泉ホテルの一部なのだが、今は一部の浴室のみが残っているだけだ。
以前はここに苦湯、鉄湯、ラジウム湯、真湯、滝湯と様々なお風呂が揃っていて、中でも苦湯は名湯中の名湯とうたわれ多くのファンがいたようだ。
しかし2001年の鉄砲水により大きな被害を被り、今は鉄湯とラジウム湯の二つだけが男女日替わり浴室として残されている。
そして私は2003年の年末に日帰りで訪問したときには鉄湯しか入れなかった。今日はもう一つのラジウム湯が女湯になっている。これはゆっくり入ってくるしかないぞ。
最初にするべきことは現在地と目的地の位置確認だ。今いる万座温泉ホテル別館から日進館に行くにはどう行けば良いのだろう。
部屋の卓上にあった宿泊約款のファイルなど見てみた。
館内図は載っていない。
それならと、廊下に出てみた。エレベーターまで行けば判るかもしれない。
エレベーターの所に行き方が書いてあった。えーと、このエレベーターで1階まで降りて、カーペットに記された緑のラインに沿って進む・・・と。
エレベーターで1階に降りると何だか場末のつぶれ掛けたゲーセンみたいなところがあり、うす暗い廊下が曲がりながら延びていた。2階のフロント前とはずいぶん雰囲気が違う。
緑のラインを信じて進んでいくと、やがて別のエレベーターの前に出た。
えーとなになに、このエレベーターで1階に降りてさらに進め?
あれ、今いる場所は1階じゃないのか?
建物が斜面に建っているので、万座温泉ホテル本館からゆけむり荘のエリアに入ったときに、いつの間にか1階が3階になっていたようだ。
とにかく指示に従ってさらに下に降りるしかない。私はエレベーターで下った。
まだまだ日進館にはつかない。
途中で廊下は二手に分かれ、左が露天風呂の極楽湯、右が日進館だと表示が現れた。
日進館は独立した湯小屋なので外だった。
ようやく最後のドアを開けると、ホテルのサンダルがいくつも突っ込まれた下駄箱があり、外に出た。
左側は斜面、右側に川と荒涼とした硫黄色の風景が広がっていた。
数十メートル先に屋根に湯気抜きのついた黒ずんだ木造の建物が建っている。
それが日進館だった。
日進館の前まで来ると、女湯から「熱すぎますー」という声が聞こえた。
建物の外に万座温泉ホテルの法被を着た女性が立っていて、「今から調節しますね」と答えている。
あららこれは急がないとぬるめられてしまう。
私は慌てて脱衣所に飛び込んだ。
今日は女湯が右のラジウム湯、男湯が左の鉄湯だ。
外観は古びていたが、浴室内の壁などは割に新しい。
三人の先客と、私と同時に入ってきたもう一人の女性と合わせて五人になった。
お湯は青みがかった薄濁りで、思ったより透明に近い。さっき入ってきたばかりの長寿の湯のお風呂とはずいぶん違って見える。
臭いも昨日から沢山入っている白濁硫黄泉のどれよりも硫黄の臭いは薄く、むしろ酸っぱそうな臭いの方が強く感じる。
肌触りは強いきしつき。
染み通りながらも肩に重いものが乗るような酸性泉独特の入浴感がある。
ところで私が入るとほぼ同時にホースからも冷水が出てきたようだ。
あえて私はホースと離れたところに入ったが、一緒に浴室に来たお姉さんはホースのすぐ近くに入った。
「熱いでしょう、熱すぎない?」と先に入っていた方が声を掛けてくる。
私は熱めだとは思ったが、熱すぎるとは思わなかったので「大丈夫です」と返したが、もう一人のお姉さんはホースのすぐ近くでも「すごく熱いです」と言って、すぐに上がってしまった。
先客の方たちは、「温度調節をする人も、熱くしたら熱すぎる、ぬるくしたらぬるすぎると言われて大変らしいわ」と話していた。
人によって好みの温度は違うから、万人向けの温泉は存在しない。
先客たちの話に耳を傾けていると、いつの間にか話はその昔ここにあった苦湯の話になっていた。
「何年前だったかねぇ、鉄砲水で流されて・・・」
「その後苦湯は本館の長寿の湯の中に移されたらしいけど、前の苦湯と全然違って効き目が薄くなったみたい」
この話は4年前の2003年に私が初めて日進館に来たときにも聞いた。内容もシチュエーションもほぼ同じで、デジャヴューかと思うくらいだ。
それほど万座温泉ホテル常連客にとって日進館の苦湯が無くなってしまったことは痛手だったのだろう。きっとここに来ると必ずその話になってしまうくらいに。
日進館のお風呂の窓は広く取られていて、窓からは背後に広がる硫黄色の斜面と青灰色の池のような湯畑が見えている。
斜面には遊歩道があるようで、ちらほらと歩いている人の姿がある。
こちらからはっきり見えると言うことは、向こうからも見えるんだろうな。
明らかにこちらばかり見ている男性もいて、感じが悪い。
一人あがり、二人あがり・・・いつの間にか年輩の女性と二人きりになっていた。
そこでその方にお願いして、ちょっと浴室の写真を撮らせてもらった。
女性は私のカメラを見て言う。
「あのね、私は最近カメラ付きの携帯電話を買ったんだけど、カメラの使い方がよく判らないのよ」
最近の携帯電話は機能が沢山ありすぎて、私も使いこなせていない。説明書なんて分厚いばかりで読む気にもなれない。
「あと、留守番電話の登録をしておいたんだけど、ちゃんと入っているか心配で」
聞くと、万座温泉ホテルの常連さんで、毎年1ヶ月単位で湯治に来ているそうだ。
その方の携帯はドコモで、万座温泉ホテルの館内ではなかなかアンテナが立たないのだそうだ。
私もそこでようやく、さっきyuko_nekoさんのドコモに電話をしたときに接続の様子が変だった理由が判った。
「いついらしたの?」
「ついさっきチェックインしたばかりなんですよ」
「そう、ラジウム湯にゆっくり入れて良かったわね。苦湯が無くなってから、ラジウム湯が一番良いもの。ここに来ると医者いらずなのよ。病院代を払うより、宿泊費を払ってラジウム湯に入る方がいいと思うわ。私たちはそうしているもの」
「明日は男女交替になってしまうんですよね。じゃ、夜にもう一度来ようかな」
「あら無理よ。ここは夕方6時までなの」
へー、知らなかった。
日進館の周囲はあちこちロープが張り巡らされていて、「硫化水素ガス危険地帯 立入禁止」の札がいくつも立てられていた。
そういえば私が日進館に向かって歩いているときにすれ違った若い女の子たちはそれを見ながら「硫化水素ガス、こわーい」「でも死ぬことはないんだよ」なんて言っていた。
硫化水素ガスで死ぬこともあるんだよと思ったけど、いきなり呼び止めてそんなことを言うのも変かと思って言わなかった。とにかく立入禁止の意味が分かっているならそれでいいかと思って。
硫化水素ガスの事故と言えば2年前に秋田の泥湯温泉で起きた事故が今も記憶に新しい。
あの事故では痛ましくも子供を含む一家四人が急性硫化物中毒で亡くなっている。
日進館に行くにはどうしても屋外を通らなくてはならず、夜間はロープを越えて硫化水素ガスの溜まるエリアに足を踏み込まないとも限らない。そうした理由から私は夜間の入浴が禁止されているのかもしれないと思った。
「それにしても日進館まで来るのは遠かったです。くねくねと廊下を歩いて二回もエレベーターに乗って・・・」
「あら、外を通った方が近いわよ」
「えっ、他にも行き方があるんですか?」
「私も今上がるから一緒に帰りましょう。雨でもなければ外を通る方が気持ちがいいわよ」
他に本館と日進館を結ぶルートがあるとは知らなかった私は、その方と一緒に湯上がりの散歩をしながら戻ることにした。
日進館を出ると、私が最初に来たゆけむり荘の方角とは逆の方にその方は歩き出した。
真っ直ぐ歩くと小さな祠がある。そちらには行かず、すぐに左へカーブした上り坂を登った。
空は曇っていたが雨は降っていない。
涼しくて、湯上がりの散歩にはちょうど良い季候だった。
日進館の建物を下に見ながら坂を上りきってすぐに、露天風呂極楽湯の入り口がある。
さらに歩くと万座温泉ホテルの正面玄関が見えてきた。
なんだこんな位置関係になっていたのか。
案内してくれた年輩の女性にはお礼を言って、フロント前で別れた。
後でyuko_nekoさんに外から行った方が近いんだねと言ったら、あっさり「そうだよ」と言われてしまった。
私が部屋に戻っても、まだyuko_nekoさんとがっちゃんは休んでいるようだった。パパは一番近い長寿の湯に行ってきたところだった。子どもたちは仲良く三人で遊んでいる。
ふと子どもたちがお腹が空いたから卓上にあるお饅頭を食べても良いかと言いだした。
ここは四人分で予約した部屋だからお饅頭も四つ。
ちび姫ちゃんは考える。ここで子供三人が三つ食べてしまうとこの部屋の家族は一人お饅頭を食べられないし、自分の部屋のお饅頭はひとつ余る。
「別に三つ食べていいよ。後からちび姫ちゃんのママ(yuko_nekoさん)からひとつもらうから」と私
「でも・・」とちび姫ちゃん。「うちのお饅頭がひとつ余っていたら、もしかしたらパパ(がっちゃん)が全部食べちゃうかも」
そ、そうなの?
「い、いいよいいよ、そうしたら私がそのうちがっちゃんに何かおごってもらうから」
さらに考え込んだちび姫ちゃんは、自分の部屋に戻って自分の分のお饅頭をひとつ持ってきた。
「これで大丈夫だね」
ところが後でyuko_nekoさんがお饅頭がひとつ足りないことに気づき、がっちゃんに「あなた、食べたでしょー」とあらぬ疑いを掛けたらしい。
「食べてないよ〜」とがっちゃん。そりゃそうだ。
yuko_nekoさんはその手のお饅頭はちび姫ちゃんが食べないと思ってがっちゃんを疑ったようだ。ちび姫ちゃんも普段なら食べなかったかもしれないが、カナやレナが食べたいというので自分も食べたくなったものらしい。
なんかソフトバンクのCMみたい。
さて、さっきも少し書いたが、自遊人という雑誌の付録に温泉パスポートというものがあって、今有効なパスポートでは万座プリンスホテルに無料で入れることになっている。
これを私は1冊、yuko_nekoさんちは2冊持っている。
後で落ち着いたら一緒に万座プリンスに行こうねという話をしていたので私はyuko_nekoさんたちが起きるのを待っていた。
結局疲れたがっちゃんはぐっすり眠っていたので、3時過ぎ、私はyuko_nekoさんと二人だけで万座プリンスホテルに行くことにした。
パパも誘ってみたが、興味ないとのこと。混浴だよと言ってみたが、やっぱり気は変わらないようだった。そしてその代わりに車の鍵を貸してくれた。
私とyuko_nekoさんは万座温泉ホテルの外に出た。
今にも雨が降りそうな空模様だが幸い降ってはいない。
うちの車は玄関から道を渡った目の前の駐車場に停めてあるが、駐車場そのものは既に満車だった。
yuko_nekoさんと顔を見合わせる。
ここで車を出すのは良いが、出してしまうと帰ってきたときにもう入れる場所が無いのではないか。もちろん万座温泉ホテルの駐車場はいくつもあるが、こんなに近いところにはもう停められないだろう。
「どうする・・?」
「歩いていく?」
目の前に万座温泉ホテルのスタッフがいたので万座プリンスホテルまでの所要時間を聞いてみる。
「10分ぐらいですかね」
「・・10分ぐらいか」
私たちは歩くことに決めた。
まさかこのときは、往復10分の何倍も歩く羽目になるとは思わなかったから。
万座温泉ホテルは道の終点に建っているので、そこから戻ることになる。
少しだけ上り坂があって、後はずっと下り。
道は大きくカーブしてT字路に出た。
真っ直ぐ行くと山の上ホテルASANO、左へ折れると万座プリンスなどがあって万座温泉の中心部へ続いているはず。左へ曲がった。後はまた下り坂だ。
「こんなに下りが続くと帰りがきついね」
「考えたくない」
下りはじめてすぐに見えてきたのは翠の水が木々を映した牛池。
それを横目にさらに歩くと右手に万座プリンスホテルが見えてきた。
プリンスホテルらしい落ち着いたカラーリングの大型ホテルで、広い駐車場はやはり満車に近いようだ。
これを見ただけで臆してしまった。この混雑ぶりだともしかして無料パスポートお断りなんじゃあ・・・。
アーチ型の入り口から中に入ってぎょっとする。フロント前に大行列。どうやらチェックイン渋滞らしい。
ちらちらと周りを見回したところ、少し離れたところに日帰り入浴用の専用受付があったのでそちらへ向かった。
「あのー、このパスポート使えますか?」
受付のおじさんはごめんなさいと言った。今日は混んでいるのでやっぱり使えないそうだ。
・・・そうだよね、駐車場も満車だし、フロントも行列だものね。
やっぱりねとは思うものの、残念な気持ちが強い。
「事前に電話してみれば良かったね」とyuko_nekoさん。
私はといえば、「電話したらまず断られると思ったけど、来てみてもやっぱり駄目だったか」
二人して建物の外に出て溜息。
万座プリンスホテルの通常入浴料は千円。
でもお風呂も大混雑していると聞いた今、千円払ってまで入る気にはならない。
かといってすごすごと万座温泉ホテルに帰る気にもなれない。
「どこか他の旅館に行ってみよう」
サルノコシカケが入っている温泉あったよね、とか、聚楽も絶景だっけなどと話し合った末、二人で出した結論は、
豊国館に行こう、だった。
豊国館も万座温泉の旅館の一つで、お湯の良さには定評がある。
それはいいけど、二人とも豊国館の場所を知らない。
yuko_nekoさんが万座プリンスホテルのすぐ下に万座温泉の観光案内所があるからそこで調べようと提案した。
ここも道が急なカーブになっている。しかも急坂だ。帰りに登るときのことを考えてゾッとしてきた。
私は観光案内所と言えば、担当者が常駐していてパンフレットや地図が充実しているところだとばかり思っていた。yuko_nekoさんもそうだと思う。
しかし辿り着いた万座温泉観光案内所は、つぶれた個人事務所みたいなありさまだった。
外観からしてそうだ。
「案内所」とは書かれているがあまりにも殺風景だ。
中に入ると組立式の机がひとつ置いてあって、その上に事務用の電話機が一つ。そして何故か薄いタウンページが何冊か。もちろん無人・・・。
ば、ばかにしてるんじゃないか?
観光客は自分でこのタウンページから必要な情報を探して自分で電話しろと?
やる気が無さ過ぎ。
タウンページを捲ったが、もちろん万座温泉専用の電話帳であるわけでもないので、目的の豊国館を即見つけるというわけにはいかない。ばかばかしいので外に出た。
次に私たちが取った行動は携帯電話で調べる・・だった。
無人の万座温泉観光案内所を背にして、おのおのの携帯を取り出す。
私がauのアプリ、EZナビウォークを起動すると、yuko_nekoさんもドコモの同様のアプリを立ち上げた。
「・・・むむ」
現在地と豊国館の位置を割り出そうとしたのだが、万座温泉のマップには私たちが泊まっている万座温泉ホテルと今し方すげなく断られた万座プリンスホテルしか記されていなかった。それじゃ役に立たないじゃんよー。
またもドコモに負けたかと思ってyuko_nekoさんを見れば、まったく同じ状況だったようだ。
・・・auもドコモも使ってる地図は同じかい・・・。
仕方がないので今度は携帯でPCサイトビューワーを立ち上げた。どこかに豊国館の地図は無いかな。
でもこれが、ほとんどのインターネットサイトは見られるんだけど、地図サイトだけは上手く表示されないのよね。四苦八苦しているとyuko_nekoさんが豊国館の電話番号が判ったから直接電話してみるわと電話を掛けてくれた。
「・・・はい、はい、判りました。赤い屋根ですね」
電話を終えたyuko_nekoさんに聞くと、豊国館は観光案内所の下の道を右に進み、少し下ったところにある赤い屋根の旅館だそうだ。
今からの立ち寄り入浴OK。入浴料は一人500円。
電話に出たおじいさんは愛想がなかったそうだ。日帰り入浴を歓迎していないとか?
とにかくまたまた道を下ることになる。
どんどん万座温泉ホテルから遠ざかっている。しかもほとんど下り・・・ということは帰りは全て上り坂だ。それも山を登るに等しいような急な上り坂。
「帰りはタクシーだぁ」とyuko_nekoさんが言う。
えー、もったいないんじゃあないの? それ以前にタクシーなんて走っているのか?
「もうちょっと下ったところにバスターミナルがあるからそこからタクシーに乗れると思うよ」
まあとにかく今は豊国館に行くことだけ考えよう。
帰りのことは、お風呂から上がってから考えるとして。
観光案内所を出て下っていくと、すぐに大きな建物が見えてきた。赤い屋根・・・というよりは気持ち赤っぽい屋根だが、あれだろうか。意外と綺麗な大型ホテルだな・・・と思ったら、それは豊国館ではなく、プリンスホテル系列の万座高原ホテルだった。
もっと道を下ると、万座高原ホテルの奥に予想していたよりもっと慎ましい建物が見えた。なまじ一瞬万座高原ホテルが豊国館かと思ってしまった後なので、益々わびしい佇まいに見える。
確かに屋根が赤い。
これが万座温泉豊国館のようだ。
表玄関のある方へ回ると、こぢんまりとした入り口ながら、やはり三連休なか日の午後だけあって出入りする人の数が多い。
玄関も万座温泉ホテルや万座プリンスホテルを見てきたばかりだと、古くてごちゃごちゃとして良く言えばアットホームな雰囲気に思える。
奥まったところに帳場があって、たぶん電話に出たと思われるおじいさんが番をしていた。
どうやら電話で愛想がなかったのは深い意味があったわけではなく単にいつもそういう口振りなのだと思われた。
廊下も古びてぎしぎしと鳴りそうだ。
昔ながらの湯治場という響きがぴったり来る。
女湯と書かれた戸を開け、狭い脱衣所でぬいで浴室に入ると内湯に二人、露天風呂に一人、先客がいらした。
「あらあなた達、運がいいわね。ついさっきまでは随分混んでいたのよ。ちょうど空いてきたところ」
そう教えてくれた方もすぐに上がってしまわれた。
露天風呂に出てみた。
露天風呂にいた方もすぐに上がってしまった。ほとんど貸切だ。
お湯は綺麗な緑白濁だった。
意外に見晴らしが良く、低い竹垣の向こうに山の斜面が見えている。
そしてその斜面の一角からはもくもくと雲のように豪快な湯煙が上がっている。
私たちは入りながら、ふと、確か豊国館は有名な混浴のお風呂が無かったっけ?と顔を見合わせた。
「まだ内湯に一人、常連さんらしい人が残っていたからあの人に聞いてみよう」
yuko_nekoさんは積極的だ。
常連さんは浴室の隅で洗面器からお湯を掛けていた。
「混浴露天風呂? あるわよ、すぐそこに。豊国館に来たら絶対に入るべきよ。こっちのお風呂なんて目じゃないわよ。せっかく来たんだから絶対に入って行かなくちゃ」
そして行き方も教えてくれた。
「こう、廊下を出て左ね。脱衣所も男性と共通だからこっちからバスタオルを巻いて移動して行くといいわ。バスタオル持ってる?」
ばっちりだ。いつもは手拭い一枚しか持ち歩かないが、今回はたまたま入るつもりだった万座プリンスに混浴があったため珍しくバスタオルも持参したのだ。
「混浴のお風呂はかなり深いから、まずこの内湯で感覚を掴んでから入るといいわよ。この女湯の内湯も結構深いから」
そう言われて内湯にも入ってみた。
本当だ。濁っているので判りにくいがかなり深い。知らないで入ると、「おっと」と体勢を崩してしまいそうだ。
何となくここは露天風呂より内湯の方が濃く感じた。
「さあがんばって行ってらっしゃい。何事もチャレンジ!!」
「おー!!」
何だかよく判らないうちに、ノリで混浴露天風呂に突撃することになった。
そう、人生なにごともチャレンジ。
私とyuko_nekoさんは女湯の脱衣所できっちりとバスタオルを巻くと、目配せして廊下に出た。
教えられたとおり左へ進むと、まず男湯の脱衣所入り口があって、その隣にもう一つ戸があった。小さく「露天風呂 混浴」の札が下がっている。
yuko_nekoさんが磨りガラスの戸を開けて、すぐまたぴしゃんと閉めた。
私にも混浴の脱衣所に大勢の男性がいるのが判った。
「ど、どうする?」
「何事もチャレンジ」
よっしゃーと、私たちは覚悟を決めて戸を開け、バスタオルを巻いたまま突撃した。
「すいませーん」
「すいませーん」
なるべく周りを見ないように足下だけを見て早足で進む。
正面に露天風呂に通じる出口がある。
やっと外に出た。
おやまあ、なんともラッキーなことに、脱衣所は大混雑だったがみんな一斉に上がったところで、広い混浴露天風呂は無人で私たちを待っていた。
透明度の低い濁り湯では混浴でも心配ないと思うが、一番の難所は入る瞬間と上がる瞬間だ。
それだけに、お風呂に誰もいなかったというのは有り難かった。
先に常連さんからいろいろ聞いていなかったとしたら、脱衣所の混雑を見て絶対に諦めていたと思う。
そうしたことも、また行く先、行く先、お風呂が空いているのもちょっとしたタイミングで何もかもラッキー。
こうしてみると、万座プリンスホテルで断られたことも、車ではなく歩きで来たことも良い時間調整になったような気がする。
豊国館の混浴露天風呂は濃厚だった。
他に形容しようが無い。とにかく濃いような気がする。
他のお風呂と比較しても濁りも強いし、硫黄らしいゆで卵とマッチを擦ったときのような臭いと、酸っぱそうな臭いも強い。
お風呂は女湯露天風呂と比較して長方形で横に長く、竹垣の無い分見晴らしも良い。
ススキの揺れる向こうに山肌からわき上がる湯煙。
何だかえらく満足感のある入浴だった。
湯口の所にプラスチックのコップがあった。
五色温泉でも思ったけど、どうしてこうマンガのキャラクターみたいなのが入ったチープなコップを置きたがるんだろうな。
木の湯口から注がれる源泉はかなり熱かったが、思ったほど苦くない。酸味が強くレモネードみたい。yuko_nekoさんははっきり不味いと言っていたが、私はそれほどでも。
しばらく女二人きりで混浴露天風呂を堪能していたが、一人男性が入ってきたのを機会に出ることにした。
後から入ってきた男性も、こちらの方を見ないようにしてくれたので出やすかった。
みんなこんな風にしてくれたら混浴でも入りやすいんだけど。
後で女湯脱衣所に戻ってからyuko_nekoさんとそんな話をした。
何しろ前に一緒に
宝川温泉に行ったときは酷い男性もいたから。
yuko_nekoさんは沢渡で、私は
酸ヶ湯や
四万の山口露天風呂でも嫌な目にあったことがある。埼玉の
百穴温泉に至っては論外だ。
私たちが上がると、ちょうど廊下のベンチのところでさっきいろいろ教えてくれた年輩の常連さんが涼んでいた。
「おかげさまで入ることができました」
「どうー? 良かったでしょ。年寄りの言うことは聞くもんだよ」
常連さんは足を悪くしてから豊国館に湯治に来始めたそうだ。
「全然歩けなかったのよ、嘘みたいでしょ」
嘘みたいです。
「歩けないと考えることもどんどんネガティブになってしまってね、やっぱり自分で動いて自分で何でもできるのが一番だよ」
ですよね。
この豊国館は共同の炊事場があって自炊湯治が可能だ。
冬季はスキー客が多いので二食付きのみ受けているが、雪のないシーズンは食事抜きで泊まれる。
泊まりで来るのもなかなか良さそうだなぁ。
帰りに帳場にいたのはさっきの男性ではなく女性だった。
「あのー、この辺でタクシーを拾うことはできますか?」とyuko_nekoさんが聞いてみたが、この辺には流しのタクシーはないし麓から呼ぶから30分以上の時間と1万円ぐらいの料金が掛かるとのこと。そ、そんな〜。
「すぐ下に万座のバスターミナルがありますよね。そこにタクシーがいるってことは?」
「無理かしらねー。麓まで降りたいの?」
「いえ、万座温泉ホテルまで登りたいんです」
「・・・歩いて登るしかないかしらねぇ」
・・・やっぱり。
私たちは湯上がりの体にむち打って坂道を歩き始めた。
私はそんなに歩くことは苦にならないが、yuko_nekoさんは見るからに辛そうで心から嫌がっていた。
それに万座温泉は山だから、各施設が一軒ごと離れて建っているし、とにかく坂が急なのだ。おまけに帰りはずっと登りだ。万座温泉ホテル、万座プリンスホテル、観光案内所、豊国館とずいぶん下って来ちゃったしなぁ。
「タクシーが通りかからないんなら、ヒッチハイクでもするかぁ」
「変な人に山の中とか連れて行かれて強盗されたらどうするよ」
しかしヒッチハイクをしようにも、そもそも登りの車が通りかからないのであった。もう万座温泉に泊まる人は、時間的にみんな宿に着いちゃったみたいだ。時々すれ違う車は日帰りで遊びに来てもう帰るところらしい。
「ああっ、バス停がある。今日、お風呂場で会った人は、電車と路線バスで万座に来るんだけど、プリンス前でバスを降りると万座温泉ホテルの送迎バスが迎えに来てくれるって言っていたよ。これのことじゃない?」
でもバスの時刻表を見ると、1時間に1本程度でもうしばらく来ない。ホテルの送迎バスは路線バスの発着時間に合わせて来るのだろうから、やっぱりここにいても仕方ない。
「歩け〜」
「もう駄目だ〜」
私たちは互いに励まし合い、泣き言を繰り合いながら坂を上った。
山の上ホテルASANOとの分かれ道を過ぎたところで後ろから大型観光バスが追い越していった。この道の先は万座温泉ホテルしかないのだから、万座温泉ホテル行きのバスだ。
「乗せてくれ〜」とyuko_nekoさん。
「今から乗ってもしょうがないじゃーん。もう万座温泉ホテル、見えてるよ」
ちなみに翌日、yuko_nekoさんは足が痛くなったそうである。
こんな調子でドタバタ喜劇を演じながら万座温泉ホテルに戻ってきた私だが、それから30分もしないうちに、極楽湯でも行ってみようかなというパパと一緒にまたまた次のお風呂に向かうのだ。
自分でもアホかと思うほどお風呂に入っているが、楽しいので気にしない。
時刻は5時半で、もう辺りは黄昏のほの暗さ。
さっき教わった外からの道の方が極楽湯も近いので、パパを道案内する。
正面玄関から出ると、灯りに照らされて霧のような細かい雨が降ると言うよりは漂っているように見える。ごく淡いミストの中に入っているようで、別に傘はなくても困らない程度だ。
極楽湯というのは万座温泉ホテルの名物露天風呂。
以前に二回、日帰りで万座温泉ホテルに来たときにも入っている。
とても眺めが良く爽快な気分になれる。青白い濁り湯が周辺の景色とマッチして、まさに雲上の極楽湯。
極楽湯に行く途中の道ばたで、脱走ウサギを発見。
私たちが車を停めている駐車場の隅に、ウサギや鶏を飼っている金網があったが、どうやらあそこから逃げ出した模様。
他にも周辺でときどき脱走ウサギを見かけるので、もう半分野生化しているんじゃないかと思うくらい。
極楽湯は混んでいた。
辺りの黄昏がだんだん濃くなって、山が薄闇に溶けていく。
霧雨はいつの間にか止んだが、湯面を照らす灯りはぼうっと霞んでいる。
お湯はぬるかった。
そして薄かった。
でもまあこれはこれで。
のぼせずにいつまでも入っていられそうだ。
長湯をしすぎたかと急いで脱衣所に入れば、えへんっとパパの咳払いが外から聞こえた。
夕食は6時半と言われていたが、部屋に戻ると既に夕食ですという内線を子どもたちが受けていた。
6時20分にみんなで大広間に降りる。
こんな大規模ホテルに泊まることは滅多にないので、雰囲気に圧倒されそう。
夕食は、大人約8,000円、子供約5,000円という値段からすると相当豪華。
パパが昨日の紅葉館の食事と比べてどう? と聞くが、食事のタイプが違うので比較できない。
あちらは家庭的なぬくもりがあったけど、こちらは整然としている。
食べてみるととても美味しい。それに私としてはかなり量が食べられた。
あとから考えてみると、万座温泉ホテルの食事はヘルシーなものが多かったのだ。それに薄味。だからこってりとしたものや濃い味付けを好む人には向かないかもしれない。
私は極度の薄味好きで、ヘビーな食事は量が入らないから、万座温泉ホテルの夕食はとても美味しく食べられた。
健康的健康的とあちこちに書かれているし実際にそうなんだけど、私としては味の面でも非常に気に入った夕食だった。
夕食を終えて一休みしたら、今度は子どもたちをお風呂に連れて行かなきゃならない。
流石にこのお風呂が今日最後のお風呂になるだろう。
えーと、朝からいったいいくつ入っているんだっけ?
洗い場も整っているところということで、行き先は大浴場の長寿の湯となる。
エレベーターでフロントのある2階で降りると、ロビーが人の山。
そう、万座温泉ホテル恒例のフロアショーの真っ最中だ。
私は今回まで知らなかったが、過去にも何度か泊まったことのあるyuko_nekoさんからこのショーのことは教えてもらった。
万座温泉ホテルの経営者はクリスチャンで伝導の使命をもって毎晩ロビーで無料のショーを行っているんだと。
万座温泉ホテルの公式サイトを見ていたので経営者が泉堅という芸名で歌を歌っているということは知っていたけど、ショーの目的が伝導とは知らなかった。
とにかくこのショーでは毎晩、宿泊券の当たる抽選も行うのだそうだ。
行ってみようかとも話していたのだが(宿泊券の魅力は大きい)、今は子どもたちをお風呂に入れることが最優先。
混雑の隙間をぬってロビーを抜け出し、そのまま長寿の湯に直行することにした。
長寿の湯は昼間と同様混雑している。
たぶん夜中でも無い限り、何時行っても混雑しているのだろう。
洗い終わった後、適当にいくつかの浴槽に入ってみた。
子どもたちは透明に近い真湯が気に入ったようだ。
露天風呂が少し空いてきたのでそちらへ移動した。子どもたちもぞろぞろと三人で付いてくる。
夜風が気持ちいい。やっぱりお湯の色は真っ白だ。
同じ万座でも豊国館が複雑な変化球だとしたら、万座温泉ホテルの長寿の湯は速さで勝負の速球ストレートだ。重みは薄いが他に強い物がある。
「ぬるすぎるかしら」
かなりのベテランと見えるホテルのスタッフがお湯の温度を見に来た。
「あのう、ここの源泉は何本どんな風に使っているんですか?」私は聞いた。
スタッフはえっと言うように私の顔を見た。
それから非常に詳しく説明してくれたのだが、あいにく私は片耳が悪くそのときの状況(角度や周りの音響など)が悪かったため部分的にしか聞き取れなかった。
だから以下の説明は一緒に聞いたyuko_nekoさんが後でかいつまんで私に説明してくれたものだ。
- 長寿の湯に使われている源泉は基本的にはひとつしかない。
- 姥湯はその源泉のある部分(上澄み?)を加水せず冷却して使用。
- 苦湯はその源泉を上中下の三ヶ所から採取して、湧き水で加水して使用。三ヶ所のどの部分に効き目があるかは判らないけど、これが一番のお勧め
- その他の浴槽はそれぞれ何かしらの手を加えてある。例えばささ湯は笹の葉をネットに入れて沈めるなど(ということは、滝湯はたぶん打たせ湯があるから滝湯?)。
- 露天風呂の極楽湯も同じ源泉。
「じゃ、じゃあ、万座温泉ホテルに他の源泉は無いんですか? まったく別の源泉を使ったお風呂とかは・・・」
「日進館の鉄湯とラジウム湯はそれぞれまったく別の源泉だよ。でも日進館は取り壊すんだけどね」
私とyuko_nekoさんは耳を疑った。
「ええっ!! に、日進館を取り壊す!?」
たった今、貴重な独自源泉を単独で入れると教えてもらったばかりの日進館が無くなる?
「い、いつ・・・」
「だから年内までだよ、日進館に入れるのは」
どうやら万座温泉ホテルでは今、日進館湯房という新館を建設中で、この完成に伴い旧日進館を取り壊すことにしているらしい。
「な・・・何故?」
ベテランスタッフは少し残念そうに言った。
「あそこは国有地になることが決まっているんだよ。更地にして渡さないとね」
どうやら新館建設地と引換になっているらしい。
「お湯は・・・? 鉄湯とラジウム湯はどうなるんですか? どこかに引いて使うんですか?」
「そのまま新館に引いて使うってわけにはいかないんだよ」
今ある源泉とミックスして使うと言うことも無いようだった。
「じゃ、万座温泉ホテルはどうするんですか? ラジウム湯を目当てに来る湯治のお客さんもいらっしゃるでしょうに」
「どうって」スタッフは後ろを振り返って白濁した苦湯を指さした。「これ一本でいくんだよ」
その後スタッフは私にどこか悪いところは無いか聞いた。
私が去年入院して煩った内蔵を答えると、彼女は私の首の真後ろを指して、「ここまでお湯に浸かるようにして・・・口のぎりぎりぐらいまで入って良いから、そうしたまま3分間入っているんだよ」と教えてくれた。「3分が終われば半身浴でも良いから。とにかく最初に3分。これで体の循環が良くなるからね」
そして、「悪いところがあるんなら、こんなところ(姥苦湯)に入っている暇は無いよ。あっち(お勧めの苦湯)に入りなさい、あっちに」と後ろを指さした。
「3分といえば
草津の時間湯を思い出すね」とyuko_nekoさん。
本当に。
きっと3分というのはきちんと意味があるのだ。
私たちはその方のアドバイス通り、半露天風呂の姥苦湯から内湯の苦湯へと場所を移した。
苦湯も真っ白に濁っている。
そして長寿の湯の他のお風呂よりも粉のような濁りが強い。パワーがあるのにさらりと軽やかだ。
3分頑張ってみた。
時計が見えなかったのでどうしようかと思ったが、yuko_nekoさんが数えればいいじゃないと言ったので、なるほどと心の中でカウントした。
すぐに汗が噴き出してくるような気がする。
決して熱すぎないのに体の中から温まりすぎて、いてもたってもいられなくなる。
こらえて入っていたら、またそのスタッフの人が来た。内風呂の温度調節もしているようだ。
「そうそう、それからね、こういうところにあるものを・・・」彼女はいきなり湯口の下の浴槽の隙間に手を入れ、硫黄の粘土みたいな湯の花を掻き出した。「これを体の悪い部分につけるのよ」
次に湯口にタオルを突っ込み、湯口にこびりついていた湯の花も掻き出した。
それを見て、私たちの隣で入浴していた若いお姉さんが真似をし始めた。
「後は飲むの。便秘にはよく効くわよ。それだけじゃなくて強い解毒作用があるから悪いものがみんな出ていく。毎日飲んでいる私たちのお腹の中は綺麗なんだから。でも普通の人は一杯だけ。一杯だけ手ですくってそうっと飲む。大丈夫ならだんだん増やしていくこともできるんだけど、勝手にやっては駄目。私が教えたとおりにしたらお腹を壊したって言われても困るから、一杯だけよ」
何時のまにか苦湯に入っていた他のお客さんも固唾を呑んで聞いている。そして彼女の講釈が終わると、吾も吾もと湯口から源泉をすくって飲み始めた。
苦湯の源泉は苦みと酸味のバランスが良く案外すんなりと喉を通った。
ベテランスタッフは美味しくないでしょと言ったが、そうでもなかった。豊国館同様yuko_nekoさんははっきりと美味しくないと言った。もしかして私の体に悪いところがあるから美味しく感じるだけなのかもしれない。
スタッフが立ち去った後も、みんな湯の花をこそげ取ったり首までお湯に浸かったりしていた。
リゾートの浴場が一転して湯治場に変わったような雰囲気だった。
私とyuko_nekoさんはまだショックを受けていた。
そう、あの日進館が取り壊されて、鉄湯とラジウム湯が失われてしまうということに・・・。